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新・気まぐれ読書日記  (11)  石山文也 ヴェルヌの八十日間世界一周に挑む

フランスのSF作家ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』を読んだのはいつだったろう。多分、ではあるが小学校の図書館にあったこども向けの海外文庫あたりだったか。中学生のころはコナンドイルのシャーロックホームズシリーズにはまるなどSFよりミステリーに興味が移っていたからだ。新聞の書評欄で『ヴェルヌの「八十日間世界一周」に挑む』を見つけてそんなことを思い出した。ヴェルヌの小説が全米で大ヒットして16年後の1889年11月、小説を実際に試してみようという前代未聞の企画が始まった。しかも当時は珍しかった女性記者たちがニューヨークを出発し、ひとりは東回りで、もうひとりは西回りで世界一周の所要時間短縮に挑んだ。「4万5千キロを競ったふたりの女性記者」という副題から<ではどちらが早かったのか>に我然興味がわいてきた。

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マシュー・グッドマン著

金原瑞人・井上 里 訳、柏書房

表紙の真ん中の人物がヴェルヌ、左が「ワールド」紙の記者で25歳のネリ―・ブライ、右が「コスモポリタン」誌で書評や文芸欄を担当していた27歳のエリザベス・ビズランドである。目標は小説の主人公で英国貴族のフォッグ卿の記録を破ることだった。ネリ―が1年前に発案して企画を出したが、編集長らから賛同を得られず、いったんはボツになった。ネリ―は、東部ペンシルヴェニア出身、ニューヨークでいくつかのメディアにフリーランスとして記事を書いたのち「ワールド」紙に採用されると当時は牢獄の殺人犯のほうが扱いがいいとまでいわれたブラックウェル島の精神病院に潜入して暴露記事をものにした。その後は調査記事やさまざまな実体験レポートが売り物の人気記者になっていた。容姿をひとことでいえばいわゆるファニーフェイスで、性格も鼻っ柱の強い行動派だった。経営トップはのちに同名の賞で知られることになるジョセフ・ピューリッツァーで、他社がインテリ層を狙ったのに対し、英語も満足に読めない移民層にも楽しめる誌面づくりが最優先された。暴力とセックス中心の犯罪記事が連日のように1面トップを飾り、映画スターのゴシップ、アフリカ探検があると思えば貨物船の密航者の苦労話という具合で、さながら見世物小屋のようだと評された。買収当時からは10倍以上も部数を増やしたもののその後は伸び悩み、減少が目立つようになった。編集長らは連日、挽回策を検討したが妙案は出ず、ネリ―の企画が再浮上した。読者を驚かせるだけでなく、世間の注目を数か月以上集めることで部数を確実に増やせる点が評価の決め手になった。

そこに割り込んだのがライバルの「コスモポリタン」誌で、反対の西回りで同じく女性記者を競わせることを思いつく。急遽、起用されることになったのは文芸欄などを担当していたエリザベスだ。南部ミシシッピー生まれ、名家のお嬢様育ちという美貌のインテリ記者だった。まさに動と静、こう書くとふたりは正反対のようだが共通点も多い。社会の不平等、きわめつけが当時のマスコミは圧倒的な男性社会で、女性記者は例外的な存在だった。そのなかでのふたりの抜擢は女性による世界一周への挑戦というだけにとどまらず、女性ジャーナリストとしてもパイオニアを目ざす役割があった。

11月14日午前9時40分、まず東回りのネリーが乗った3本煙突の蒸気船ヴィクトリア号がニュージャージー州ホーボーケンの埠頭を出港して大西洋をイギリスのサウサンプトンに向かった。ドイツの海運会社の最大の船で乗客定員は1,175名、専用埠頭はニューヨーク市街とはハドソン川を挟んだ対岸にあった。一方の西回りのエリザベスは同じ日の夕方6時に42番街にあるニューヨーク・セントラル鉄道のグランドセントラル駅からシカゴ行きの急行寝台車で世界一周に旅立った。

ふたりのルートはイタリア―地中海―スエズ運河―紅海―インド洋の中間でセイロン・コロンボに寄港―マラッカ海峡―シンガポール―南シナ海―香港―東シナ海―横浜―太平洋―サンフランシスコ間の海路は同じだったが船会社も違えば大洋を渡る時期がずれ、イギリスとフランス、アメリカ大陸の横断コースも異なった。最終的にふたりとも出発地点に無事戻った。もちろんどちらが早かったのかはミステリーの犯人を知らせるようなものだから紹介はできないけれども。

トラブルは行く先々で必ずと言っていいほど起きた。予定していた便に乗れなかったとかスクリューの故障で他の会社の船に乗り換えることになるなどはまだ序の口にすぎなかった。西回りのエリザベスが乗ったシエラネバダ山脈越えの郵便列車はそれまでも頻繁に脱線事故を起こしていた。機関車は新型で馬力のあるものに変えられ、機関手も鉄道関係者に“つむじ風”として知られた大柄でぶっきらぼうなアイルランド系の山専門の人物に交代した。不敵な面構えで「時間通りに着くか、全員そろって地獄へ行くかだ」と宣言すると蒸気エンジンのスロットルレバーを勢いよく引いて列車を急発進させた。登りもそうなら下りでもレバーを引いたままだった。「カーブにさしかかるたびに鉄の車輪が軋む音がきこえた。列車のうしろには、火花がほぼ切れ目ない線となって二本続いている」「ひとつ目のカーブにさしかかったとき、片方の車輪が宙に浮き、もう片方の車輪だけで走ることになった。ぞっとするような一瞬が過ぎたあと、列車はどうにかして体勢を立て直し、浮いていた車輪はがたんと大きな音を立ててふたたび線路に着地した。すぐに逆のカーブにさしかかり、今度は反対の車輪が持ち上がった」。エリザベスも「まるで暴れ馬のような列車だと思い、地獄に連れて行かれそうな瞬間が何度もあった」と回想している。

東回りのネリ―もカリフォルニアから予定していたセントラル・パシフィック鉄道が大雪で封鎖され、代わりに南を大回りするサザン・パシフィック鉄道に乗り換えた。ニューメキシコの峡谷では工事中だった橋を時速80キロで通過した。ワールド紙は「まさに危機一髪、列車はいまにも落ちそうな橋を稲妻のように駆け抜けた。目撃した保線員たちは、まさに鉄道史に残る奇跡だと報じている」と書いたが、ネリーは「危ない目には何度もあいました。でも、大陸横断の最中にいちばん肝を冷やしたのは、渡り終えた直後に橋が崩れたときです」と語っている。崩れかけたのか直後に崩れたのかは定かではないが、彼女の話はヴェルヌの『八十日間世界一周』にワイオミング州での場面として登場する。

「汽車は見事に河を渡った!まるで稲妻のようだった。橋は全然目にはいらなかった。岸から岸へ跳んだといえよう。(中略)汽車が通過すると同時に、すでに破損していた橋はものすごい音を立ててメディシン・ボーの急流に落ちていった」(田辺貞之助訳、東京創元社)偶然の一致か、それとも事実は小説より奇なりだろうか。

文芸担当記者だったエリザベスの横浜印象記は当時の情景を「人通りが多い割にあたりが奇妙に静かなことに気付いた。やがてそれは馬がいないせいだとわかった」などと分析し「大きなキノコのような麦わらの笠をかぶった男たちが二輪車を引きながら小走りに駆け抜けていた。これが有名なジンリキシャだ。日本語で人の力で動く車という意味で、縮めてリキシャともいう」と紹介している。帰国後の彼女の体験談を聞いて感激したニューオーリンズ時代の同僚だったラフカデフィオ・ハーン=小泉八雲は、矢も楯もたまらず日本に向かった。

ふたりの生い立ちから世界一周に出かけるまでの半生がこれでもかというほど描かれる、そして本番の旅はハプニングの連続。寄港する全ての港町には大国イギリスの植民地であることを示すユニオンジャックがはためいている。発展に沸き立つ新大陸からやってきたヤンキー娘たちの異なる感性。世界早回り競争の勝者と敗者、それぞれの「その後の人生」もくわしく紹介されている。

それから125年、この偉大なるドキュメントはすっかり忘れ去られ、塗り替えられたはずのヴェルヌの想像力の産物である『八十日間世界一周』はこれからもしぶとく生き残る。

ではまた

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