連載 ジャパネスク●JAPANESQUE かたちで読む〈日本〉 10
柴崎信三
〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。
10 〈風景〉について
横山大観の「富士」と国民のまなざし
「乾坤輝く」は旭日を背にして雪を頂いた富士が、煙るように棚引く雲に包まれて穏やかな顔をのぞかせている。「龍躍る」の富士を取り巻き、渦巻く雲の間には雷光が走り、小さな龍が躍っている――。変幻する富士を主題にした山の十点と海の表情の移ろいを描いた十点からなる横山大観の「海山十題」は、日本の四季の自然景観を描いた日本画でありながら或る種の「戦争画」と呼ばれる。
もちろん、それは日米開戦の前年の「皇紀二六〇〇年」を奉祝して、この日本画の巨匠が戦争協力のために描いた作品だからであり、とりわけ「富士山」という表象が戦時体制下の国民の大きな共感で迎えられたからである。
展示されてすぐにすべての作品が当時で五十万円、現在の貨幣価値なら二十億円は下らない巨額で軍需産業の経営者らに買い上げられた。
大観がこの売り上げで四機の戦闘機を購入して陸海軍にそれぞれ二機を献納したという挿話が、戦争協力者として戦犯
に問われながら復権した戦後になっても大観の神話性を高める要因となった。
「海山十題」は戦後、流転した。二十点の作品のうちの多くが購入者である大川義雄、山崎種二、五島慶太、中島喜代一といった戦時経営者らの手を離れて、戦後長い間行方不明となったのは、その「生いたち」を巡る社会的な禁忌も手伝ったのであろう。
一九七一(昭和五一)年に北沢バルヴが倒産し、会長の北沢国男の日本画の収集のうち十七点の大観の作品を、島根県安来市の足立美術館が八億円で購入した。そのなかに「雨霽る」「海潮四題・夏」があった。いまは大観の作品の最大の収集で知られる同美術館はその後、満州国の外交官にわたった「曙色」が米国へ移住した娘のもとにあることを探り当て、一九八〇年代の初めに入手している。戦後、幻の名画とされてきた「海山十題」の二十点のすべてが揃って再び人々の目に触れたのは、二〇〇四(平成一六)年夏、東京・上野の東京芸大美術館で開かれた展覧会であった。今日の市場における大観作品の抜きんでた高い評価の要因は、こうした褒貶と流転に伴う神話作用も少なからずあろう。
横山大観は生涯に夥しい「富士」の絵を描いた。とりわけ、戦時下にそれが「彩管報国」と呼ばれる戦争遂行へ向けた国策美術の素材となり、自然表象としての〈風景〉が国家と国民の情念を取り結んで、広く社会に働きかける機能を担ったのである。
近代以降、日本の表現の場で風景としての〈富士〉が描かれた場面はおびただしい。絵画、文芸、映像といった独立した表現の領域はもとより、ポスターやデザイン、商標といったものまでを含めれば、その裾野の広がりに歴史が育んできた「霊山」の神意に対する国民的な表徴作用を読み解くことができる。
横山大観が富士山を画題として描いた作品は、およそ千五百点にのぼる。絶筆となったのも一九五七(昭和三二)年の「不二」だったが、生涯の富士画のうち五百二十四点が一九三七(昭和一二)年から敗戦の前年までの時期に集中している。これは戦時体制という社会背景の下の強い要請と響き合って作品が〈社会化〉したことの証であろう。
「彩管報国」は総力戦体制のもとで、国家が国民の意識を〈聖戦〉の勝利へ向けて統合するための美術キャンペーンであるが、同時にその時代の国民の強いまなざしを映したものであり、一方的なプロパガンダとは異なる共鳴効果をそこに認めることができる。
〈古い本に富士を『心神』と呼んでいる。心神とは魂のことだが、わたしの富士観といったものも、つまりはこの言葉に言い尽くされている。(略)春夏秋冬、朝昼晩、富士はその時々で姿を変えるが、しかし、いつ、いかなる時でも美しい。それはいわば無窮の姿だからだ。私の芸術もその無窮を追う。私はこれからも富士を描き続けるだろう〉
戦後、自らの〈富士〉という画題を振り返って大観はこうに述べた。
一連の〈富士〉を主題にした風景のモチーフには、勤王思想を引き継ぐ水戸藩士の家の生い立ちがもたらした、国粋主義的な精神性が深くかかわっている。
大観の〈富士〉を題材とした作品の中に当初あった絵画的な造形や技巧の変奏は、大正期から昭和前期へと時代が推移するに従って次第に影を潜め、日輪や雲海、松林などの記号的な背景を組み込んだ、国家的なシンボルとしての〈富士〉が前面に立ち上がる。
例えば一九一七(大正六)年ごろに描かれた「群青富士」(静岡県立美術館蔵)は、六曲一双で絹本着色の屏風絵であるが、雲間から顔を出した紺色の富士はデフォルメされて、ユーモラスな表情を背景の金地の華やかな広がりのなかに浮かべる。夏富士の爽快感をモダンな意匠で描いたこの作品からは、それを超えた思想的含意は伝わらない。
一方、それから二十年あまりを経て、一九四〇(昭和一五)年に紀元二千六百年奉祝美術展への出品作として描かれた「日出処日本」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)の造形は、これとはすべてにわたって対照的である、
雪を頂いた富士は、頂上に向かう幾筋かの稜線によってその神さびた姿が強調され、裾野に漂うようにたなびく雲の波の上空に、朱に輝く日輪があたかも富士を迎えるような構図で対置される。この富嶽像は自然としての実在の富士を写実的に描いたというより、日輪に迎えられた白雪の頂きの気高さを、煙るように広がる下界の雲海によって際立たせて描いた、まことに政治的な暗喩に満ちた作品である。
大観が描く「富士」の図像がこのような時代的な表現の落差を広げていったのはもちろん、皇国思想のもとで「自然」に向かう画家自身の美意識の遷移と、それを促す社会、とりわけ総力戦をすすめる天皇制国家が「無窮の霊山」に仮託した寓意の作用であろう。
師の岡倉天心の影響のもとで、大観は水墨画ややまと絵を通して日本の伝統を掘り下げるとともに、中国の老荘思想やインドのヒンズー思想から東洋的な自然観を探求した。
「気韻生動」という天心が日本美術院に掲げた「日本画」の創造の理念は、西欧の写実絵画を超えて対象と描き手の間に流動する、生き生きとした心の動き表現しようというものである。しかし、新たな境地を求めて伝統的な日本絵画の線描を否定して、色彩の濃淡や刷毛の筆触などで空気や光を描くという大観らの「没線描法」は、社会から「朦朧体」という批判を浴びて不振を託った。行き詰まった天心が、インドで詩人のタゴールやヒンズー教の大家のビベカーナンダとまじわり、出会ったのが「不二一元」の思想である。
天心は『東洋の理想』のなかで、この不二一元の思想を「存在するものは外見上いかに多様だろうとじつは一であるという、偉大なインドの教説」と説いた。不二はすなわち富士であり、これが「アジアは一つ」というよく知られた惹句に導かれて、のちに大東亜共栄圏を掲げてアジア各国へ侵攻する、日本の軍国主義のスローガンに引用されていく経緯は広く知られるところである。
〈アジアは一つである。二つの強力な文明、孔子の共同主義をもつ中国人と、ヴェーダの個人主義をもつインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔てているというのも、両者それぞれの特色を強調しようがためにすぎない。雪を頂く障壁といえども、すべてアジアの民族にとっての共通の思想遺産ともいうべき窮極的なものに対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることは出来ない〉
天心が「アジアは一つ」という言葉に託して、このように日本を含めたアジアを〈西欧〉への文明的な対抗軸として提示したことによって、自然と人生への観照としての気高い山という、それまでの一般的な富士像から、日本の精神的な卓越性の表徴へと大観の〈富士〉が飛躍する、ひとつのきっかけがもたらされたと理解することができる。
一九二三(大正一二)年に、大観は東洋的な自然への観照と人生の流転を河の流れに見立てた水墨画の絵巻「生々流転」を制作する。絹本で四〇㍍にも及ぶ、この長大な作品は山間に落ちた一滴の水がせせらぎを作り、やがて山河を潤す河となり、大海に注ぐまでの大自然のうねりのなかに、時間と人生の移ろいを凝縮して描いた大作である。
ここに描かれた〈自然〉は文字通り、孤独で寄る辺ない人間の一生に対応する鏡としての自然であり、後年〈富士〉に託した国民的な統合のシンボルとしての自然ではない。
大観の描く〈富士〉が、天皇を頂く「国体」の観念の視覚化という性格を顕著にしたのは、一九二七(昭和二)年に宮中御座所を飾るための下命を受けて制作し、献上した「朝陽霊峰」と題する六曲一双の屏風絵である。富士と朝日と松林という「三点セット」が、清澄で厳かな「日本」へ国民心理を誘う図像的な効果をあげている。
これをきっかけに大観は、皇室の下命や国家や軍からの要請で富士画をはじめとする日本の山河を描くようになった。同時に一九三一年には帝室技芸員へ推挙され、一九三七年には第一回の文化勲章を受章するなど、国家と結んだ「彩管報国」の指導者として坂道を上りつめてゆくのである。大観は戦時体制に入ってからも、戦闘場面など戦争それ自体を描くことはなかったが、祖国の山河という〈自然〉をひたすら描くことで戦争へ向かう国民のまなざしを集め続けた。その意味ではきわめて特異な「戦争画家」である。
その頂点が開戦前夜の一九四〇(昭和一五)年に開く、皇紀二千六百年奉祝記念展へ出品するために描いた「海山十題」である。日本の自然を素材にして、海にちなむ十点と山にちなむ十点で構成されたこの連作は、〈聖戦〉へ向けた国家への翼賛を目的として創作したことを作者が明確に謳い、それが大衆的な評判を広げて大きな反響を呼んだ。
〈それ皇恩の優握なる海山もただならず、余、三朝の恩澤を蒙り絵事に専心することここに五十年。今、興亜の聖戦下に皇紀二千六百年の聖典に会し、彩管報国の念止み難きものあり、よって山海十題を描きて之を世に捧ぐ。博雅君子幸いに清鑒を給え〉
大観がこう記したように、作品のあからさまな政治性は覆うべくもない。にもかかわらず、「海山十題」のうち、すべて富士を描いた「山」にちなむ十点には、厳かで優美な四季折々の富士を取り巻く空気の移ろいを、さまざまな手法で描き分けた傑作が含まれる。同じ時期に同じ作者が「量産」したポスターまがいの富士画と比べれば、「空気を描く」という画家の理想が戦時下の最もきわどい場で結晶した、まことに反語的な作品といえる。
大観の〈富士〉の絵は戦時下の国民から喝采をもって迎えられる一方、枢軸国家の同盟国であったドイツ総統のアドルフ・ヒトラーや満州国皇帝の溥儀らにも外交儀礼として贈られた。自然景観を描いた絵画がこのような政治的効用を担ったことも例外的である。
天皇が単に政治上の元首であったばかりでなく「万民の上に君臨する美的・倫理的権威として、日常生活の些細な徳目や審美観にまで浸透、内在しうる原理であった」と、政治学者の橋川文三が指摘したこの国の近代の天皇制というシステムが、大観の〈富士〉に特異な社会的効用をもたらしたことを、ここで改めて参照する必要があろう。
〈―あなたは東京が初めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方ない。我々が拵えたものじゃない〉
自然景観としての〈富士〉は、文芸などほかのジャンルでも繰り返し描かれてきた。夏目漱石の『三四郎』のなかで「広田先生」が語りかける広く知られたこの言葉には、古来日本人が〈富士〉に寄せてきた形而上的な賛美に対するシニカルなまなざしがある。
英国留学帰りの知識人、漱石が日露戦争に勝ってナショナリズムに酔う当時の日本の世相に寄せた、辛辣な批評の目をそこに見出すことはたやすい。
日清戦争に続いて日露戦争に勝利を収める日本が、列強に伍して世界にその存在を主張し始めた時期にあって、日本の自然景観を讃えることで「風景ナショナリズム」とも呼ぶべきブームを起こしていたのが地理学者、志賀重昂が著した『日本風景論』である。
日清戦争が始まった一八九四(明治二七)年に刊行されたこの著作は、その後八年間で十四版を重ねる当時として空前のベストセラーとなった。火山国である日本列島の地理学的な成り立ちを説き起こすなかで、その景観的な特徴を「瀟洒」と「美」、そして大らかなさまを意味する「跌宕」という三点に求めて、山河の景観や自然造形、気候や植生、生物の生態などから美質を世界に比較して論じた、希有の愛国的な景観論である。
〈想ふ浩々たる造化、その大工の極を日本国に鍾む、これ日本風景の渾円球上に絶特なる所因、試みに日本風景の瀟洒、美、跌宕なる所をいふべきか〉
もちろん、ここで富士山は「名山中の名山」として「豈に一字一句だに自美自讃を要せんや、聴けこの山に対する世界の嘆声を」と謳われている。漱石が広田先生に語らせた言葉には、こうした手放しの風景ナショナリズムへの深い懐疑が含まれている。
対外的なシンボルとして〈富士〉が広く意識されるようになったのは、葛飾北斎らの浮世絵で描かれた〈富士〉が西欧社会で知られるようになったことがある。その強い影響を受けたヴィンセント・ファン・ゴッホの作品などを通して、〈富士〉が日本の聖像(イコン)として世界に迎えられていったことは、この日本の表象に国民の意識を覚醒させてゆく大きな動因となった。加えてラフカディオ・ハーンやポール・クローデルといった、明治以降に日本で暮らした外国人の作家や外交官らが、著作の中でその壮麗な山容の美を世界に紹介したことを通して、国家のアイデンティティーとしての〈富士〉が大きなイメージを伴って国民意識に定着していくのは、理解しやすい経緯であろう。
昭和期に入るとともにそうした〈富士〉の表象が皇国思想との紐帯を強めて、〈聖戦完遂〉へ向けた国家的なイデオロギーを担うようになってゆくのは、大観の〈富士〉の画題がたどる造形の変遷が示す通りである。〈富士〉は「八紘一宇」の戦時標語をそのままに、「国体」の精神的な〈屋根〉として、その益荒男振りに視点が移されてゆくのである。
太宰治が『富嶽百景』を発表したのは、一九三八(昭和一四)年である。
東京から富士山麓の御坂峠の茶屋に移り住んで、秋から冬へ向かう数カ月を過ごした作家が、そこで出会う人と富士山の景観を綴った、文字通りの私小説である。
〈まんなかに富士があって、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひっそりと蹲って湖を抱きかかえるようにしている。私はひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ絵だ。芝居の書割だ。どうにも註文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった〉
この短編で富士は一見、ことさら卑小で通俗な姿に描かれている。左翼運動と日本浪曼派という国粋美学の間に揺れ動き、無頼と韜晦の日々を生きていたこの作家が、市塵を逃れて〈富士〉という崇高な景観に向き合った場面の心の屈折が、ここでは浮き彫りにされている。それは作者の心象そのものであって、「富士には月見草がよく似合う」という有名な一節もまさしく、この大いなる山を鏡として、おのれの屈託をひよわな花に託した措辞であったのだろう。太宰は「富士は、のっそりと黙って立っていた。偉いなあ、と思った」と自身に言わせて、向き合った風景とのやりとりのなかに窶した〈富士〉を、独特の自意識を転倒させた諧謔的な叙法によって、ひそかに讃えているのである。
戦火がアジア各地に広がる一九四三(昭和一八)年、詩人の草野心平が発表した詩集『富士山』は、より直截に〈聖戦〉への祈りを富士に託した、紛うことない戦争詩である。
〈麓には桃や桜や杏さき。/むらがる花花に蝶は舞ひ。/億万万の蝶は舞ひ。/七色の
霞たなびく。/夢み見るわたくしの。/富士の祭典。/(略)遥かの涯まで海は凪ぎ。
/潮くだける岩窟の。/黒黒おほきな。/日本の屋根。/(略)追い迫る。/〈日本〉
/せりあがる富士〉
ここには、すでに現実の〈富士〉の景観はない。聞こえてくるのは、同じころ求められるままに富士画を描き続けた大観に通じる、戦時の国民に向けた激しい咆哮である。
日本人の〈トポス〉としての富士山を考える上で、大観に対置してみたいのは晩年になってから故郷の南仏プロヴァンスのサント・ヴィクトワール山を描き続けた、フランスの画家、ポール・セザンヌの場合である。
画家の文化背景や思想はもとより、作品のモチーフも技量もまったく異質ではあるが、ポスト印象派の巨匠で「近代絵画の父」と呼ばれるモダニストが、晩年にいたって故郷の神話的な伝説をもつ山の景観を飽くことなく描き続けたことは、近代画家にとっての〈トポス〉の意味と、その風景が働きかけるものの例証として一考に値するだろう。
印象派からキュヴィズムへの道筋をつけたともいわれるセザンヌは、晩年に故郷のエクス・アン・プロヴァンスに戻って、幼いころから親しんだサント・ヴィクトワール山を飽くことなく描き始める。さまざまな造形の変化のもとでこの山を描いた作品は、油彩、水彩、線描あわせて生涯で百点近くにのぼるといわれ、その過半はエクスへ戻った一九〇〇年ごろ以降の作品である。唐突な故郷の〈風景〉への回帰はあくまでも画家の内的な動機によるもので、大観の〈富士〉のような社会的文脈を帯びたものではない。
ゴットフリート・ベームは、セザンヌにとってサント・ヴィクトワール山が故郷の豊かさと渾然一体となったものであり、「強くそして記念碑的な仕方で、セザンヌが自らの存在および芸術の根を下ろした土地を具現している」と指摘して、こう続けている。
〈しかし同時にこの山は、山または山脈の隠喩に関わっており、そしてその隠喩は、ヨーロッパの歴史においてつくられてきたものに留まるものではない。モーゼが十戒を受けた旧約聖書のシナイ山から、来るべき神の栄光をキリストの弟子たちが見たタボル山、そして、北斎の手による神聖な富士山の数多くの景色にいたるまで、山というものは、文化にとって一番の特徴的な経験を表している〉
ベームによれば、サント・ヴィクトワールに連なるヴァントゥー山は詩人のペトラルカが一三三五年にはじめて登り、そこで風景としての自然という、近代思想の根底にある経験を得た場所であり、風景画の成立と絵画における〈山〉の隠喩にこの山々は深くかかわっている。晩年に故郷のエクスに戻ったセザンヌは一九〇三年一月、友人のヴォラールにあてた手紙で「私は粘り強く制作しています。そして私の前には称えられた土地があるのです。ヘブライ人の偉大な指導者同様、私はどのような状況にあるのでしょうか」と、モーゼの故事に自らを重ねて問いかけている。
もちろん、繰り返し描かれたサント・ヴィクトワールの山は、画家にとってこうした歴史的な修辞に導かれただけの対象ではない。眺める場所と季節や時間によって自在に変幻する山容を、構図と筆触と色彩を改めて繰り返し造形するなかから、セザンヌは「自然」という抽象で構成された故郷の風景に、有機的な意味のつながりを追求したのである。
エクスで最晩年の画家と交流した詩人のガスケは、セザンヌの言葉を残している。
〈自然は万人に語りかける。ほら、ところが、風景というものはかつて一度も描かれていない。不在の人間、それでいて、風景のなかに完全に没入した人間。(略)…この土地に私をつないでいる鎖の環が完全に切れてしまわないように、つねに感動をときには自分自身で気がつかないまま味わってきたこの土地から完全に引き離されたと思うことが絶対ないように……〉
「風景とは何か」という問いに、柄谷行人は「風景とは一つの認識的な布置であり、いったんそれができあがるやいなや、その起源も隠蔽されてしまう」と述べている。
この定義に従えば、大観の〈富士〉とセザンヌの〈サント・ヴィクトワール山〉のいずれもが、近代国家という布置のなかで画家が自らの〈トポス〉として探りあてた、自然表象としての〈風景〉であり、それはあくまでも画家が獲得した仮想的な自然なのである。
それでは人はなぜ〈風景〉を呼び起し、故郷というトポスにそれを探ろうとするのか。
中国系米国人の地理学者、イーフー・トゥアンは著作の『トポフィリア』のなかで、〈場所愛〉という意味の興味深い造語によって、この問いに答えようとしている。
〈人間は、個人でも集団でも、「自己」を中心として世界を知覚する傾向がある。自己中心主義と自民族中心主義は、その程度こそ個人や社会集団によって極めてさまざまであるが、人間の普遍的な特徴と思われるのだ。意識は個人のものなので、世界を自己中心的に構成することは避けられない〉
トゥアンのいう自己中心主義と自民族中心主義が構成する人間の中心的な価値観は、その置かれた環境や所属する場所に依っている。生まれた土地や親しんだ風土、そこに生きることで出会う風景や人のつながりなどが育む、広く人間に形作られる審美的な認識や愛着は、このような〈トポフィリア〉という概念で括られる、というのである。
ここから呼び出されるのは、いくつかの文芸作品に描かれた自然である。トゥアンは英国の女性作家、ヴァージニア・ウルフが『燈台へ』のなかに描いた刈られた草のそよぎや羊の鳴声、詩人のワーズワースが湖水地方のヘルヴェリン山から受け止める「哀感と無限の感覚」の知覚に、この〈トポフィリア〉の表徴を認めている。
この〈トポス〉への愛着という人間のプリミティブな感情は、やがてその場所の来歴や歴史と結んで共有される記憶を通して〈郷土〉や〈祖国〉への愛着となり、〈テラ・パトリア〉、すなわち出生地への愛という情緒を育てる、とトゥアンは敷衍していく。ここに〈風景〉がナショナリズムと結んでその翼を広げる、大きな転回点が訪れるのである。
〈ヨーロッパに近代国家が誕生して以来、感情としての愛国心は、どこか特別な場所と結びつくことがまれになった。愛国心は、いっぽうでは誇りと力という抽象的なカテゴリーによって喚起され、他方では、旗のような特定の象徴によって喚起されたのである。近代国家は大きすぎ、国境はあまりに勝手に引かれ、あまりに雑多な地域が含まれているので、経験や親密な知識から生まれるある種の愛情を集めることができないのだ。現代人が克服したのは距離であって、時間ではない。人生の時間のなかで、人は今や―過去と同様に―世界の小さな片隅にしか、深く根を張ることはできないのである〉
またアントニー・D・スミスは、近代社会のナショナリズムを形作る「前近代的な紐帯と感情」の由来を、過去にさかのぼったエスニックな共同体である〈エトニ〉に求めて、その結びつきがどれほど時間を遡ったところで成立しているかを問いかけている。
スミスは〈エトニ〉から呼び起される文化的な属性として「集団に固有の名前」「共通の祖先に関する神話」「歴史的記憶の共有」「一つまたは複数のきわだった集団独自の共通文化の要素」「特定の〈故国〉との心理的結びつき」「集団を構成する人口の主な部分に連帯感があること」などをあげている。
こうして喚起された〈エトニ〉の表象は、理想化され、象徴化されて文芸、絵画、彫刻、建築、音楽、オペラ、バレエ、映画といったさまざまな表現の領域に再構築され、近代国家におけるナショナリズムの形成に動員される、とスミスは指摘する。
平安期に噴火を繰り返し、その人知を超えた自然のエネルギーが霊的な神秘や怖れの対象となってきた〈富士〉は、〈エトニ〉の造形としてもっぱらその抗いがたいイメージばかりが歴史に伝承され、日本社会に超越的な表象作用をもたらしてきたわけではない。
〈田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける〉
万葉集で山部赤人が歌枕に詠んだ富士は、文字通り清々しい真冬の叙景の対象として描かれている。江戸後期の画人、葛飾北斎が晩年を賭けて描き、この山を日本の象徴として世界に伝えることになった「富嶽三十六景」にしても、その多くは富士山を取り巻く人々の日常的な暮らしが前景となって、穏やかな近世の文明の景観を作り上げている。
それが近代に反転して、国民の意識を国家という空間に統合する政治的な装置の役割を担うのは、〈富士〉が国際的なイメージの反響を広げるなかで〈日本〉を対外的に視覚化する図像として国民に意識され、天皇制国家の〈聖像〉となっていったからであろう。
古代の詩歌に詠われ、山岳信仰や富士講に仰がれ、浮世絵にその理想美を描かれてきた〈富士〉というトポスが、日本人のなかに蓄積してきた精神的刻印は、かくして天皇を頂く〈国体〉というシステムの下で国民のまなざしを統治する審美的、倫理的な規範となって、総力戦へ向かう人々に〈恩寵〉をもたらす固有の情感を紡いでゆくのである。
「彩管報国」の指導的立場に立って〈富士〉を描き続け、それをもって国民を〈聖戦〉に向けて鼓舞した横山大観は戦後、戦争協力の責任を問われた。しかし、これを巧みにかわして日本画の巨匠として復活し、最晩年に再び〈富士〉の画像に向き合ってゆく。
日本が敗戦の荒廃から立ち上がり、サンフランシスコの講和によって独立国家を回復した一九五二(昭和二七)年、八十四歳の大観が描いた「或る日の太平洋」という作品がある。これは冷戦下に米国の占領を脱して独立を回復し、自立への道を歩む日本を象徴的に描いた、戦後の国際関係を映すまことに政治的含意にみちた作品というべきである。
きわめて大胆な構図のもとで、逆巻く太平洋の荒波がせり上がるようにぶつかり合って砕け散る。波頭がせめぎ合う海面には稲妻が走り、波間から小さな龍が頭をもたげている。その奥に漂う雲海の上空に、白雪を頂いた富士が悠然とした頂きをのぞかせている。
「富士には龍が棲む」という伝説に依りながら、廃墟から立ち上がった日本が冷戦構造の下で大国の間に揺らぐ運命を描いた作品といわれる。十七点もの下絵やスケッチが遺されており、「シュルレアリズムを思わせる」とさえ評価された画面の躍動感が、この作品に賭けた最晩年の大観の魂魄を伝えている。
とはいえ、ここに描かれた〈富士〉には風土や伝統に培われてきた〈トポス〉としての風景はもはやない。ここで大観の〈富士〉は国民が〈トポス〉として探り続けてきた風景を超えて、日本という国家をさし示す抽象的で政治的な一つの記号となっている。
戦後、日本人が心に映す〈トポス〉としての〈富士〉はどう変化していったのか。
洋画家の梅原龍三郎は、戦時下の日本に背を向けて中国に居を構え、戦中も「北京秋天」などの作品を発表したが、敗戦を迎えるとともに祖国の「富士」に向き合い、多くの富士画を描き始めた。「真剣に富士にぶつかり始めたのは終戦の年の秋からである」と梅原が記しているように、〈富士〉は敗れた祖国を鎮魂する図像として画家のまえに屹立した。
〈富士山は間断なく変ぼうして、間抜けな奴とばかり自分を翻ろうし出した。そのころの日記には毎日のやうに「時不利離不逝、時不利筆不進、おやおや富士山如何せん」と書いてゐる〉
富士を描くことで改めて失われた自らのアイデンティティーを模索した梅原に対し、日本画家の東山魁夷が戦後に探った風景に〈故郷〉はすでに失われつつあった。
大観が退場した戦後社会にあって、風景画家として国民的な評価を広げてゆく魁夷の描いた自然は、モダニズムのなかに穏やかな清浄感をたたえている。やがて高度成長期の日本が失ってゆく風景をそこに探りあてることで、人々は大きな慰安と郷愁を受け止めた。戦争に敗れた故郷の山河から得た一つの啓示的な経験によって、この画家は向き合った戦後の風景に日本人の〈トポスの不在〉を見出していった、というべきかも知れない。
〈足もとの冬の草、私の背後にある葉の落ちた樹木、私の前に、はてしなくひろがる山と谷の重なり、この私を包む、天地のすべての存在は、この瞬間、私と同じ運命に在る。静かにお互いの存在を肯定し合いつつ無常の中に生きている。肅条とした風景、寂寞とした自己、しかし、私はようやく充実したものを心に深く感じ得た〉
戦後すぐに故郷の房総の山を描いて日展の特選となり、魁夷の出発点となった『残照』の制作現場に再び立ったときの心象である。画家の原風景そのものであったろう。
日本人が心の古層に育む自然への憧れと郷愁を呼び起し、失われてゆく風景を清澄なリリシズムで造形した魁夷の作品には、「ハイマート・ロゼ(故郷喪失者)」と自ら呼んだ人生が重ねられている。生まれ育った家庭が揺らぎ、応召ののちの敗戦で日本が荒廃をきわめるなかで、画家は「私は風景画家になるという方向に、だんだん追い詰められ、鍛え上げられてきた」とその歩みを振り返っている。
戦時体制へ向かうドイツに留学した青春期に大きな影響を受けた画家が、ドイツロマン派の風景画家、カスパル・ダヴィッド・フリードリッヒであった。北方ドイツの山並みや田園をパセティックに描いたこの画家の風景画は「精神の目で見るために肉体の目を閉じよ」という言葉をそのままに、自然が呼び起こすある種の霊気が観者の心をひきつける。風景が孕むフリードリッヒの作品の精神性は、姿を変えて行く祖国の「自然の残響」を探る「故郷喪失者」の魁夷に大きな痕跡を残していったはずである。
戦後の魁夷は、列島各地の山並みや樹林、古都の景観などのほか、若い日を過ごした欧州の街並みや田園なども数多く風景として手がけた。そのなかにはもちろん〈富士〉も含まれているが、それは画家にとっての数ある失われてゆく風景の一つに過ぎない。
自らの人生に深く重なり、戦後という風景を喪失してゆく時代にも重なる、私的な遍歴の記憶として描かれたノスタルジックな「故郷」の風景には、どこかで国籍をもたない旅人のまなざしが交錯する。雪が降り積もる京都の北山の杉林も、白夜の北欧の湖の風景も、等しくこの画家には仮想的な失われた「故郷」であった。その〈トポス〉に大観の〈富士〉のような、国家に働きかける「精神の大伽藍」は、もはや探るべくもなかろう。
=この項終わり
(文中敬称略、参考・引用文献等は連載完結時に記載します)