書斎の漂着本 (15) 蚤野久蔵 作文良材遊紀文
明治40年(1907)に大阪で発行された『作文良材遊紀文』という<教材本>のひとつだ。縦13cm、横7.5cmで、手のひらにすっぽり入る大きさだから掌本、豆本の部類といえる。発行者は大阪市南区唐物町四丁目の立川熊次郎で、発売元には立川が経営する立川文明堂を筆頭に岡本増進堂、岡田文祥堂、名倉昭文館の大阪市内4店が名を連ねている。立川文明堂は「立川文庫」で急成長するが、このときはまだ仲間と共同歩調での販売だった。次ページには京都市・山中書店、名古屋市・星野書店、久留米市・菊竹書店、広島市・友田書店、下関市・上山書店、東京市浅草区・岡村書店、同神田区・精華堂書店の7店が掲載されているのでそれぞれの発売元の先に地方の販売網が広がっていたのが分かる。
定価は30銭で246ページ、函はないから、あったとすればこれは裸本ということになる。布装の表紙は膨らみ、背の金文字は消えかけているし、左下はねずみのかじった跡があるから保存状態はよくない。さて、どこで手に入れたのだろうと考えたが思い出せない。京都・下鴨神社の納涼古書市だったような気もするし、東寺の弘法さんの古道具市のがらくたの中にあったか。いずれにしても少額だったから記憶に残らなかったのだろう。古書店だって高く売れるとは考えないだろうし、酔狂にも買うお客がいるとも思わないだろう。手に入れた私もこれまで何回か捨てかけて思いとどまったのは、小さいので場所をとらないから。この連載のために書庫を探していて文庫棚の端にはさまっていたのを見つけた。著者、といっても編者だが、名前が「渚遊山人」というのも漂着物探しやシーカヤックなど<渚には縁の深い>私にぴったりだなどと思いながらあらためて読みだすとこれがなかなか面白い。捨てなくてよかった!
良材(文例)として紹介されているのは全部でちょうど80例。紫式部、兼好法師からはじまり、太平記、松尾芭蕉、其角、新井白石、近松門左衛門、井原西鶴などが江戸時代以前。他は同時代=明治人で、外国人は登山家でも知られるイギリス人宣教師のウォルター・ウェストンがただひとり選ばれている。複数紹介されているのは正岡子規、田山花袋、高須梅渓の各4、徳富蘆花の3、尾崎紅葉、小島烏水、大和田建樹の各2である。聞きなれない高須は大阪出身で、国民新聞、東京毎日新聞、二六新報などの記者を勤め、文芸時評を手がけた人物だから<大阪つながり>だろう。小島は登山家で、ウェストンとも交友があり、代表作の『日本アルプス』や多くの随筆、文芸批評、美術評論を残した。大和田は国文学者で「鉄道唱歌」や「故郷の空」の作詞でも知られる。
めくっていくと何カ所かに赤鉛筆で線が引かれている。持ち主が「これは参考になる!」と引いたに違いない。
太田南畝(蜀山人)の『富士山』に引かれているのを紹介する。
三月朔日(=一日)、天気快。松永村のほとりより富士を見るに。暫しがほどに雲起き蔽ひて高根を見ず。村々の家並都近き田舎の如くにして大きなる松あり。左右に紅の椿盛りなり。椿林といふ。これまで駿東郡にして、富士郡江尾村のあたりは富士山の正面と聞くに、雲霧霽(晴)れて鮮明に見ゆ、芦高山の横たはれるも。
数回顧視るに。雲深くして冨士を見ず。芦高山伊豆の岬。遥かに見渡されて。浪ここもとに打ち寄する。海面に何やらん鳥の群居るに。潜める魚を窺うなるべし。
月も宿さまほしき夕暮れなり。庵原川を渡りて江尻の宿に着きぬ。
著者評:蜀山人の流麗なる文辞は多くをいうの要なし。巧みに其光景を描写せり。この人をして登山せしめざりしを恨む。
計7ぺージにわたり引用されている例文中、赤線はこの3カ所だが、あまり参考になる個所とは思えない。しかも文中では芦高山(愛鷹山?)は鮮明に見えたが富士山は見えなかった。著者が、この人(=南畝)を富士山に登らせなかったのは云々、というのは見えもしなかったのだからいささか的外れではないか。
正岡子規『馬糞紀行』は友人と八王子方面へ吟行に出かけた帰りの新宿の駅頭の情景を句にした。
新宿に荷馬ならぶや夕時雨
馬糞のいきり立たる寒さかな
馬糞のぬくもりにさく冬牡丹
鳥居より内の馬糞や神無月
著者:さても風流なる旅行、馬糞も今は多く肥料として路には捨て置かれずとは有難し。
「馬糞句」はまだあるが紹介はこのくらいにしたい。それにしても著者の着眼点もなんだかなーのコメントである。
ウェストンの『アルプス山登山探検記』はそもそも邦訳が固すぎる。
著者は数年前、その奇怪なる山貌のために、博士チャンパレイン(=イギリスの日本学者チェンバレン)をしていみじくも「日本のアルプス」と呼ばしめたる大山脈に眼を転じ、かくて数回探検の結果は、この国のいかなるところにも匹敵を見るべからざる荘厳と美麗とを信ぜしめぬ。
著者評:読者の脳裏に明解なる印象を與ふるの名文なり。そうですか。
名前に「山人」とあるし、小島烏水の『昇仙峡』などを例に挙げているところからもかなりな山好きかもしれない。
最後の4例は、「梅四章(名家の美文)」で近松門左衛門、紫式部、徳富蘆花、大和田建樹の4作品から引用されている。蘆花の『古寺の梅』は短いので紹介しておく。
ある年の二月、小田原より湯本に遊び、早雲寺に詣る。時に夕陽函嶺に落ち、一鴉空を渡り、群山蒼々として暮れなむとす。寺内人なく、唯梅花両三株雪のごとく黄昏に立てり。徘徊良久うして空を仰げば、古りし鐘楼の上に夕月の夢よりも淡きを見たり。
函嶺は箱根(山)の別称で、徘徊は境内を巡り歩くことに使っている。いまどきの「徘徊老人」などの用例よりはるかにマシだがどうだろう。
ところで文例に登場した同時代人でもある「明治の文豪」は紅葉だけが2例選ばれている。他に思いつくのは森鷗外、夏目漱石、二葉亭四迷、幸田露伴、樋口一葉あたりだが、見当たらない。選択基準にはあくまで著者の<好み>が反映されたのだろうが同時代人の評価となると別だったのかもしれない。