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池内 紀の旅みやげ(41) 血の素─三重県関

名古屋で関西本線に乗り換えた。桑名、四日市、亀山。次の関(せき)で下車。坂道をのぼっていくと十字路に出る。とたんに二十一世紀が十九世紀に逆転したような町並みに入っていた。

「関の地蔵さま」で知られた旧宿場町で、東海道五十三次の四十七番にあたる。その点では五十三のうちの一つにすぎないが、ここがユニークなのは、旧の町並みの大半がそっくり残っていることだ。だから「展望台」と呼ばれるちょっぴり背の高い建物から眺めると、古い瓦屋根がかさなり合って、うねうねとつづいている。奇妙な黒い二筋道が、ゆるやかに湾曲してのびている。

よく観光ポスターなどで歴史的な家並みを見かけるが、たいていは写真のマジックで、実際に訪ねてみると、ほんの何軒かがチラホラとあるだけ。すぐ隣りはコンクリートやプレハブや合板づくりである。そのほんの数軒も、あれこれ手を入れて観光の目玉にしたまでのこと。その点、伊勢の関宿はまるきりちがう。歴史的家並みが現代にそのまま生きており、連子格子の奥で美容院が営業している。魚屋、野菜・果物店、米屋、酒屋、雑貨店……。いずれも暮らしに必要な商店である。重厚な白壁の店内にドコモの製品が並んでいる。どうしてこれほどみごとに町並みが残されたのだろう?

首をひねりながらノンビリと歩いていった。何軒かごとに参道がひらけて、奥に寺や神社がある。よそ者にはわからないが、組みなり隣保なりの単位があって、それぞれの小さな共同体を氏神さまや「お寺さん」が守っている。南に国道が走っていて、旧道を往き来するのは暮らし用の車だけ。ほぼ中央の地蔵堂と前の広場が宿場町コミューンのヘソにあたるのだろう。そこから西の家並みが小振りになる。大工、石工、指物師などの職人衆のエリアだった。現在も工務店の名入りの軽トラが軒先にとめてある。

「アレレ……」

「補血強壮ブルトーゼ」なんだか随分元気になりそうな看板です。

「補血強壮ブルトーゼ」なんだか随分元気になりそうな看板です。

おもわず足がとまった。まっ赤なBlut(ブルート)が目にとびこんできた。ドイツ語で「血」の意味であって、たしかに血のように赤い。「補血強壮・ブルトーゼ」。薬屋のガラス戸に張り出されている広告。ポスターのデザインは、大正時代から昭和初年に流行したアール.デコ調で、そのころの商品と思われる。いつの時代にも体力の衰えをクスリで回復したい中高年がいるもので、そのための強壮剤である。「味の素」が登場したころであって、とすると血の素があってもおかしくない。

神社の縁側でミカンを食べながら小休止。ことのついでに裏通りを探訪してわかったが、旧の家並みはウナギの寝床のように細長くて、裏手は畑につづき、野菜や果樹がうわっている。そこは宅地にもなるわけで、日当りの悪い表通りの家は表札だけにして、日常の生活は裏の新宅といったケースが少なくないようだ。表札と暮らしを二本立てにすれば、古い住居を壊さずにすむ。

しかし、そうはいっても暮らしにくさにねをあげて、住みいいのに建て換えたい人が次々と出てきたはずだ。昭和四十年代に始まる日本経済の高度成長のなかで、瓦屋根、土壁、格子戸の建物は惜しげもなく打ち壊されて、安っぽい新建材のものがとってかわった。日本の町の景観は、この時期を境に一挙に醜くなった。

かつての関宿で知られた旅籠が記念館になっており、そこの展示で知ったのだが、やはり先覚者がいた。昭和初年にはやくも関町の古さを生かす提言をした人がいる。世の発展から取り残されたように思っていた町民に、この古さこそ貴重である旨を説いてまわった。日本全国が「所得倍増」に浮かれだし、何であれ古いものを毛嫌いして新しいものにとびついたころ、再び古い町並みの意味を説く人があらわれ、グループが形成され、町に働きかけて景観条例をつくるまでになった。日本中が打ち壊しに走っているただなかで、古さを生かした町づくりは勇気のいることだったのではなかろうか。セメントとコンクリート組にアナクロニズムだとせせら笑われたにちがいない。

瓦屋根が続く、ゆるやかな波のうねりのように、家を被いつくして緩やかな波はどこまでも人の住まいを、大事に守っているのです。

瓦屋根が続く、ゆるやかな波のうねりのように、家を被いつくして緩やかな波はどこまでも人の住まいを、大事に守っているのです。

よく見ていくとわかるが、単に古いままではないのである。「血の素」の広告のように、過去の記憶を封じこめたような小物(こもの)を装飾として配置する。暮らしのための改良、補修には伝統とマッチする工夫をほどこしていく。どうしても現代の家屋を主張する人には、建物を奥に引くかたちにして、通りに面したところに古さをデザインした塀をつくってもらう。住人の数ほど注文はあるだろうが、ねばり強く話し合って解決していけばいいのである。関町の景観がここちよいのは、住民自治の精神が支えになっているからだ。

地蔵堂の階段で、涼しい風に吹かれていると、杖をついた老人がヨチヨチやってきた。どこから来た、何しに来た、どこへ行く、と警官が尋問するように問いただされた。

「日本の中心を知っているか?」

「血の素」を愛用したような血色のいい顔。長寿眉の下で、目がギョロリとにらんでいる。東京と言いかけ口ごもっていると、やにわに杖でドンと階段を叩くなり、「ここだ、関だ」としゃがれ声で言った。それが証拠にここを境にして、東を関東、西を関西というじゃろう──。

言われると、そんな気がしたので、「なるほど」とうなずくと、じいさんは満足げに回れ右をして、またヨチヨチと歩いていった。

【今回のアクセス‥関西本線関駅より徒歩約十分】

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