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連載 ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 11  柴崎信三

 

 〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

11 〈時代〉について

     「東京駅」と「日本橋」の光と影

 

 

復元された東京駅丸の内駅舎(辰野金吾設計9

復元された東京駅丸の内駅舎(辰野金吾設計9

復元された東京駅丸の内駅舎(辰野金吾設計)                                                                      

               

蘇ったこの重厚でクラシックな駅舎を「明治」というひとつの時代の終わりを告げる挽歌とみるべきか、それともその後の「帝国」の熱を帯びた興亡の象徴とみるべきなのか。

大戦の空襲で焼失した塔屋部分を建設時のままに復元して、ヴィクトリアン・ゴシック様式と呼ばれる赤レンガの姿を一新した東京駅の丸の内駅舎は、大都市東京の歴史を刻む記念碑であり、その意志的な景観はこの国の「近代」の記憶を冴え冴えと呼び起す。

列車が発着するプラットホームに沿って衝立の様に南北へ伸びる、赤レンガで壁面を彩った三階建ての駅舎は、丸ビルや皇居のお濠端に建ち並ぶ高層ビルに囲まれながらも威風堂々たる佇まいを失わない。頭部を飾る二つのビザンチン風の丸屋根は、「西洋」と向き合いながら、それを乗り越えようとしてきたこの国の百年の時間を見守るかのようだ。

一九一四(大正三)年十二月十八日。六十歳の辰野金吾は六年半を費やしてようやく竣工にこぎつけた東京駅舎の開業式典にのぞんでいた。

  

東京駅丸の内駅舎のドーム天井とレリーフ

東京駅丸の内駅舎のドーム天井とレリーフ

 

 竣工したとはいっても、まだ南側部分のステーションホテルは形をなしていない。それでも駅の天井にめぐらされた万国旗やホームの鉄柱に巻きつけられた赤と青の飾りのモールが、華やかな祝祭気分を盛り上げる。駅前の広場は「三菱が原」と呼ばれる茫漠とした荒れ地に過ぎなかった。そこに皇居に向けた約七〇㍍幅の道路が駅前から造成され、行事などで地方へ向かう天皇や皇族がここから鉄道を利用することから「御幸通り」と名付けられた。

 この通りを迎える駅前広場には巨大な凱旋門がつくられ、万国旗で結ばれた両側の塔にはイルミネーションが輝いている。というのも、この開業式典は一か月前の天長節、すなわち十月三十一日にドイツ軍が占領する中国の青島を日本軍が攻撃して陥落させたことから、立役者の神尾光臣中将らが新装なったこの中央駅に凱旋するという行事にあわせた祝典として計画されたからである。

 早朝から花火が上がり、軍楽隊の演奏が響き渡る中を招待客や一般の見物人が続々と祝典会場とその周辺に集まっている。午前九時からの開業式典は鉄道院の工事報告のあと、来賓の首相、大隈重信が祝辞を述べた。

 

〈凡そ物には中心を欠くべからず、猶ほ恰も太陽が中心にして光線を八方に放つが如し、鉄道もまた光線の如く四通八達せざるべからず、而して我国鉄道の中心は即ち本日開業する此の停車場に外ならず、唯それ東面には未だ延長せざるも此は即ち将来の事業なりとす、それ交通の力は偉大なり〉

 

一時間ほどで式典が終わると、招待客らはそのままプラットホームへ移動した。横浜の高島町から特別に運行された列車で神尾中将ら青島封鎖の作戦にかかわった幕僚たちが到着するのである。万歳、万歳の声がホームにこだまする。広場の軍楽の響きがひときわ高まった。軍装に威儀を正した軍人たちは馬車に迎えられ、集まった群衆の日の丸の小旗に見送られてそこから「御幸通り」を皇居へ向かった。

広場には舞台が設えられ、太神楽、俄狂言、素人相撲などの余興が始まる。やがて招待客らは立食の宴席で杯をあげた。鉄道院がこの日の祝典へ向けて招待状を送った各界の賓客は二千三百人を超えた。

 

「建築家として生まれたからには東京に三つの公共建築を残したい」

 

これが当時の建築界で「法王」と呼ばれる辰野が胸に秘めてきた野望であった。三つとは一に国会議事堂、二に日本銀行、そして三に中央停車場、つまり東京駅にほかならない。このうち国会議事堂は財政難などから実現に至らなかったものの、日銀本店と東京駅丸の内駅舎の二つを辰野が自らの手で設計し、そのいずれもが二十一世紀の今日まで健在で首都の都心を代表する景観を形作っているのは、歴史が仕組んだ演出であろうか。

明治維新のあとの一八七二(明治五)年に横浜と新橋の間に初めて鉄道が敷設されて以降、全国的な鉄道網の整備がすすむなかで、一八八九(明治二二)年に東海道線が全面開通した時も始発駅は新橋であった。皇居を控えた丸の内地区は首都の中枢機能を集中して整備する「市区改正計画」が進められていた。山手線や東北、常磐線などの起点である上野との間の鉄道は空白のままであったことから、「三菱が原」と呼ばれていた大名屋敷跡のこの地区の中心に「中央停車場」を設置して鉄道網をつなぐ構想がにわかに具体化していった。それは国会議事堂建設と並んで首都の「顔」を描き上げる国家的な事業である。

東京駅の駅舎を最初に図面を描いたのはドイツ人技師のフランツ・バルツァーである。鉄道延伸を委嘱されたヘルマン・ルムシュッテルの後を継いで来日した土木技師であったが、日清戦争で計画が中断したバルツァー案は辰野が手がけた現在の東京駅によく似た設計であった。南北に三百㍍にわたって伸びた長い低層の構造、乗車口を南側、降車口を北側に設けてその中央に帝室用の乗降口を置く、三つの建築物を列車のように連ねた造りはほとんどそのまま辰野が設計した現在の東京駅に踏襲されているようにもみえる。

問題は立面図、つまり建物の顔ともいうべき外観であった。

バルツァーの描いた立面図はいわば、奇妙な和洋折衷様式で、辰野を困惑させた。西洋建築そのままの赤煉瓦の壁面の上にかぶさっているのは、日本の神社や仏閣にあるような曲線が波打つ破風である。乗車口には一、二階にそり曲がった唐破風殻が積み重ねられ、さらに三階部分に三角形の千鳥破風が覆っている。日本人が見ればおそらく、洋装の西洋婦人が丸髷を結って簪を挿したような、日本文化に対する西洋人の誤解と無知を見せつけられて不快感さえかきたてられるような意匠にほかならない。

 

〈あれはいまにして思えばあの男が唱えた「和三洋七の奇図」ではなかったか〉

 

目の前に建つ自ら手がけたヴィクトリアン・ゴシック様式の赤煉瓦の駅舎を振り返りながら、喧騒が広がる開業式典の会場で辰野が思い起していたのは、終生のライバルとしてさまざまな場面で暗闘を繰り広げてきた建築家、妻木頼黄のことである。

和三洋七、つまり和風が三分を占め洋風が七分を占めるという建築様式が日本の建築界で論議の的になったのは、おそらく官庁集中計画が起案されて国会議事堂の建設計画が具体化した折、政府の臨時建築局が委嘱したドイツ人建築家、ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンが提出した「第二次国会議事堂案」の意匠にはじまる。

当初、〈エンデ・ベックマン〉が提示した国会議事堂の構想は百八十㍍の間口に七十㍍の奥行きを持ち、中央にドームと左右両翼にパビリオンが張りだす、西洋のバロック様式をそのままに再現したものであった。欧州視察のなかで辰野がアムステルダム中央駅の構築から想を得たともいわれる東京駅の設計と同じように、それは近代日本の国政の中枢を体現する議事堂に西欧の都市建築の理想を再現する、明確な意思が反映されていた。

この議事堂案は、その後一転する。のちに「和三洋七」と揶揄される、和風の伝統意匠を組み込んだ「第二次国会議事堂案」を〈エンデ・ベックマン〉が提出するのである。この背景には、来日した西洋人の建築家の間でその国の歴史や風土に見合った「国民的様式」を取り込もうという機運が広がっていたこともあろう。

辰野は〈エンデ・ベックマン〉による「第二次国会議事堂案」を目にした時の大きな衝撃を思い起こす。それはあの堅牢なバロック様式を解体しかねない、奇怪な眺めというほかはなかった。両翼に位置する貴族院と衆議院の正面には入母屋風の大屋根が取り付けられ、その屋根は瓦葺きである。中央の玄関に唐破風、そして塔屋に千鳥破風がある。

西洋の建築様式の堅牢で審美的な構築の壁面を日本の祭りの山車のような、曲線に揺らいだ装飾が彩る眺めから伝わるのは、和洋折衷の粋というより、異質の文化を無理やり継ぎはぎした違和感の方が先立つのである。バルツァーが残した東京駅の立面図はまさにこれと同じような、「和三洋七の奇図」というべきものであった。

「国粋」と「国辱」の境界は見定めにくい。欧化主義のもとで近代化の坂道を駆けのぼるこの時代にあって、日本の「伝統」をそこに見出そうという創造者の意図がこのような折衷主義の迷路に陥るのは、或る意味で必然的な帰結であったのかもしれない。そして辰野はこの「和三洋七」の〈エンデ・ベックマン〉による「第二次国会議事堂案」の背後に、ドイツに留学中で臨時建築局の建築官僚としてこの国の公共建築を差配しつつあったライバル、妻木頼黄の影を思い描いたのである。

 

近代日本をつくる建築の指導者として、明治政府が招請した英国の少壮建築家、ジョサイア・コンドルの後を継いで工科大学の中枢に就いた辰野が、日本の建築家の草分けとして国家の枢要な事業にかかわるなかで、激しくその覇を競ったのが妻木頼黄であった。

 

〈私は幼にして孤独の身と爲り、種々辛苦の末、工部省に於て送電術を学んだが、ドウも面白く無い故、寧ろ洋行して勉学せんものと決心し、明治九年の春、単身渡米の途に就いた〉

 

自らの歩みをこのように振り返る妻木は一八五九(安政六)年、禄高千石の旗本の息子として江戸赤坂に生まれている。旧幕府で勝海舟に私淑していた父親の源三郎は息子が三歳の時に亡くなり、旗本の誇りを教えた母も御一新のあとに世を去る。残された家督を継いだものの天涯孤独の身となった頼黄は、労苦を重ねながら建築を学ぶために米国への留学の道を選び、コーネル大学の建築学科に進んだ。

心機一転して建築を学んだ米国から帰国すると、妻木は維新のあとの激動に身をまかせながら内閣臨時建築局など新政府の建築官僚として「官庁集中計画」などに采配を振るうのである。東京府庁舎や東京商業会議所など、その作品の多くは失われていま見ることはできないが、その後学んだドイツの建築から多くの影響を受けた横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)など、いくつかの印象深い建築が現存している。

「和三洋七」と評された〈エンデ・ベックマン〉の「第二次国会議事堂案」に妻木が少なからぬ影響を与えていると辰野が睨んだのには、理由がある。

総裁の井上馨の下、官僚として臨時建築局で「官庁集中計画」に携わり、国会議事堂の設計もドイツから招いたベックマンに委ねていたということに加えて、妻木自身も一八八六(明治一九)年秋、交換留学のような格好で二十人ほどの日本人の職人たちを引き連れてドイツに派遣され、ベルリンの「エンデ・ベックマン事務所」に学んでいるからである。「和三洋七」の「第二次国会議事堂案」は、こうしたドイツ人建築家が抱いた異文化への憧れと妻木ら日本人が暖める「伝統」への自覚という、「日本」へ寄せる二つの異なったまなざしのベクトルが結びあって、おのずから形になっていったのであろう。

幕藩体制のもとで育んだ旧幕臣の誇りと江戸文化の残照のなかを生きた妻木は、終生日本の伝統建築と近世の文化への強い愛着を見失うことがなかった。留学したコーネル大学の卒業論文が「日本建築の成立」と題して、日本の伝統的な様式を論じているのも、旧幕臣という身分が育んだ江戸と伝統文化への郷愁と無縁ではなかったことの証である。

そうした妻木の思想を反映した、特異なデザインの建築作品が現存している。辰野金吾がベルギー国立銀行をモデルにして代表作の日銀本店を完成させてから三年後の一八九九(明治三二)年、妻木が東京・内幸町に建てた日本勧業銀行本店である。

  

旧日本勧業銀行本店(現千葉トヨペット本社)

旧日本勧業銀行本店(現千葉トヨペット本社)

 

 赤煉瓦の壁面に列柱を重ねた、堅牢な西洋建築の様式で辰野が完成させた日銀本店に対抗するかのように、妻木がこの建築で実現したのは銀行の本店という合理的な機能に一見似つかわしくない、閑雅な寺院を思わせる和風の二階建て木造建築なのである。

 

〈これが西洋とは違う日本なのだ〉

〈威風堂々とはこの建築ではないか〉

 

 この建物が二〇世紀を目の前にした帝

都の中心に現れた時の人々の驚きと慄きを想像すると、不思議な感慨に導かれる。それは若い国家の希望と憧れが交錯する西欧建築に対して、その欧化主義に抗するかような人々の伝統への自覚と郷愁を映した風景として、立ち現れたからである。

 この建物はのちに京成電鉄に売却されたあと、習志野市の谷津遊園に移築されて俳優の板東妻三郎の事務所と撮影所として使われた。戦中から戦後にかけては千葉市に移されて千葉市役所の庁舎として使われた。そして一九六五(昭和四〇)年からは再度移築されて千葉・美浜区で民間自動車販売会社の本社にあてがわれ、現役のオフィスビルとしていまも活用されている。鉄筋コンクリートに改築されているが、歌舞伎座などを彷彿とさせる唐破風の正面玄関と三角の入り母屋造りの屋根、漆喰仕上げの壁など、ほとんどは当初の純和風の意匠がそのまま保たれている。

こうした伝統美を随所に取り入れながら、官僚組織の中の周到な政治力と幅広い人脈を駆使して官庁系の建築を次々に手がけていった妻木が、工部大学校というアカデミズムを足場にして日銀本店などの正統的な西洋建築を通して「法王」とまで呼ばれるようになる同時代の建築界の第一人者、辰野との間に確執を広げ、現場での対立や衝突が起こるのは十分予想される事態であった。

妻木がこの日本勧業銀行本店を完成させた一八九九(明治三二)年、最終的には実現に至らなかった国会議事堂の建設計画をめぐって政府が「議院建築計画調査会」を発足させて、辰野は妻木とともにそのメンバーに名を連ねた。

旧幕臣出身で新政府の官僚に転じた妻木は、旧幕府作事方につながる政府の建築官僚のネットワークと幕臣出身の有力者を後ろ盾に官庁営繕と呼ばれる政府系の建築に強い政治力を発揮して次々と主要な建築物を手がけてきたが、辰野が活躍してきたアカデミズムを足場とする建築界では傍流に甘んじた。一方の辰野は日銀本店を完成させたものの、建築家として手がけたい三つの国家的な建築物の一つ、国会議事堂に関しては妻木というライバルが官僚的才覚でこれを着々と自分の手中に収めようとしていることを知っていた。妻木は日清戦争のさなかに広島に計画された仮設議事堂をわずか二週間で完成させ、国会議事堂の本建築計画でも政府部内で最も有力な建築家と目されていたからである。

日露戦争を挟んで議事堂建設計画は膠着状態に陥るが、引き継がれた大蔵省の議院建築準備委員会を足場にして一九〇七(明治四〇)年暮れ、政府が三年後を目途に議事堂着工の方針を固めると、辰野金吾は伊東忠太、塚本靖という三人の建築家の連名で「議院建築の方法に就いて」と題した声明を発表した。

 

〈聞く所に拠れば大蔵省は、事務官と技術官を欧米に派遣して彼地に於ける議院建築を調査せしむるべしと云う。内閣に在って専心調査すべき事項甚だ多し、而して今此の実際問題を捨て、倉皇として出て海外に遊ばんとする果たして何の心ぞや。/惟うに議事堂の如き国家至大の建築計画を挙げて一家の私見に委任するが如き時代は既に経過し了りたり、今日の政治は宰相一人の専断を許さずして博く国民をして之に参与せしむるに非ずや。其国政を議する所の議事堂亦豈一家の考案に委するを許すべけんや、我が済々たる建築家は均しくこの名誉ある工事に対して、其考察を提供すべき権利と義務を併有せり、当局者若し此の権利と義務とを蹂躙するが如き事あらば、これ実に昭代の不祥なり。/懸賞図案募集の方法に関しては吾人素より成算のあるあり、他日此の問題の進行するに従て之を陳述せん事を期す、慈に議院建築設計の宜しく一個人に委任すべからざる所以を明にし、懸賞募集の最適切なることを述べて江湖諸君の賛成を乞はんと欲す〉(『建築雑誌』明治四一年三月号)

 

いささか長い引用となったが、要は国会議事堂の建設と云う国家事業の設計は官僚機構のなかで裁量的な人選によって行われるべきではなく、広く民間に呼びかけてコンペティション、つまり公開選考によるべし、という主張である。正論であることは言うまでもないが、それが政官界を後ろ盾にして当然視されている妻木への流れへの激しい異議申し立てであることは、改めて指摘するまでもない。

コンペへ持ち込むことで「国会議事堂」建設の主導権を大蔵省とその下の妻木から奪おうという辰野の目論見は、一九一〇(明治四三)年十月に首相官邸で開かれた議院建築準備委員会の第五回会合で、委員の伊東忠太と大蔵次官の若槻礼次郎との激しい議論の応酬となって評決へもつれ込んだが、最終的には大差で否決された。官庁営繕という官僚機構にまつわる利権と人事を巧妙に抑えた妻木の政治力が、在野の建築界を背景にした辰野の正論を相手にしなかったのである。

 

〈夫は官界に扶植した勢力で、彼自らも官僚式を発揮して居た。性格は巧言令色、名利を重んじ、社交につとめて居た〉

 

コンペティション提案の否決の経緯を振り返って、伊東忠太は手記にこう記している。

このあからさまな妻木への反感は、公の場で「官僚建築家」の妻木に挑んで敗れた辰野の地団駄を踏むような気持ちを代弁したものであったろう。

宿敵の辰野金吾を「国会議事堂建設」という舞台の入り口で打ち破った妻木は、この日本という国家の象徴とも言うべき議会建築計画をほぼ手におさめたかにみえた。

しかし議事堂建設計画はその後、またもや膠着して先へ進むことが困難な状況に陥る。もっとも大きな要因は一九一〇(明治四四)年一月、大逆事件の被告、幸徳秋水らに対する死刑の執行をめぐって議会が紛糾し、それをきっかけに後ろ盾となった宰相、桂太郎が退陣して、代わりに首相の座に就いた西園寺公望が日本の朝鮮併合など植民地経営で膨張する軍事費の見返りに緊縮財政を打ち出したことである。当然に当時二千五百万円と見込まれた議事堂建設予算は縮小する。明治政府の開闢以来の懸案であった「議院建築計画」は、ここでまた先送りされて頓挫するのである。

 

 

幕臣から新政府官僚へ転身し、時の宰相の桂太郎をはじめとする政権の後ろ盾を得た「官僚建築家」の妻木が、時局の変転に運命を弄ばされるのは宿命であったのかもしれない。

 

〈私が妻木君を知ったのは、明治廿一二年頃でしたが、丁度妻木君が米国から帰朝されて、東京府の御用掛となられた時、当時の府知事渡邊洪基さんの紹介で初めて知り人となりました〉

 

辰野はライバルとの出会いを、のちにたんたんとこう回想している。

そもそも二人の暗闘はこのころ、東京府庁舎の設計を巡って指名を競い合って妻木がこれを取ったことに始まっている。アカデミズム出身の在野建築家として復権を期した辰野は、勝ち取った日銀本店を一八九六(明治二六)年に完成させて鬱憤を晴らし、国家プロジェクト建設の指導的な立場を確実なものにした。

もとより、妻木が有力視されていた国会議事堂にコンペ方式を提案するという大きな賭けに破れたあと、並んで持ちあがっていた中央停車場、つまり東京駅の設計についても当初有力とされていたのは妻木であった。例のドイツ人建築家、バルツァーが描いた中央停車場の「和三洋七の奇図」は妻木とその官庁営繕の職人たちが思い描いた日本的な理想と重なり、最も説得力のある計画と目されたからだ。しかし、日露戦争を挟んでバルツァーが帰国し、隆盛を誇った妻木には、大逆事件に端を発した宰相桂太郎の失脚や朝鮮の植民地政策に伴う政府の緊縮財政への転換が重なって陰りが忍び寄る。

その結果、議院建築、つまり国会議事堂計画がまたまた先送りとなる一方、日露戦争の勝利で高まる帝国の威信の象徴ともいうべき中央停車場計画の指名を受けた辰野が、ヴァルツアーの「和三洋七の奇図」を退けて英国のヴィクトリアン・ゴシック様式の堂々たる駅舎を一九一四(大正三)年に完成させるのである。

 

辰野が東京駅開業の祝賀行事の雑踏のなかで感慨にふけっていたころ、五十五歳の妻木は神経痛を患って自宅で伏すことが多くなっていた。「議院建築計画」を巡って辰野がコンペを主張して巻き返しを図ってきたのが昨日のことのようだが、この鳴り物入りの東京駅の開業は、師のお雇い外国人、ジョザイア・コンドルに代わってライバルの辰野が日本の建築界を差配する「時代の寵児」になりつつあることを映しだすかのようである。

辰野が仕立てた赤煉瓦の重厚な外観を誇る東京駅に向き合うように三年前、妻木は自らの建築家としての歩みの記念碑ともいえる作品を仕上げた。目と鼻の先といってもいい日本橋川に架けかえられて開通した日本橋である。

明治日本が世界へ向けた国家としての威信を造形したのが辰野の日銀本店や東京駅だったとすれば、日本橋は一見ささやかな構築物である。しかし、日本橋には道路原標が置かれて日本全国の五つの街道を結ぶ交通の要衝をなしているばかりか、江戸開闢以来この橋は富士山と並んで北斎や広重らの浮世絵が描く、日本人に最も愛された風景の一つとなってきた。人と物と情報と金が行き交う、江戸の都市文化の象徴的なトポスとして今日に及んでいることは、改めて述べたてるまでもない。

とりわけ、旧幕臣の一族から維新による没落をくぐりぬけて新政府に身を置いてきた妻木にとって、この橋は失われてゆく自らの来歴とその時代の記憶を呼び起す、特別の意味合いを伴って在り続けたに違いない。

東京駅の建設に先立つこと十八年前、明治国家の金融活動の中核である日銀本店は、欧化政策の陣頭に立つ外相、井上馨のもとで進められていた「官庁集中計画」を見直すなかで、ベネチアをモデルにした渋沢栄一の「日本橋商業街構想」に後押しされて造られた。それは政府の臨時建築局の職務を投げ出した辰野金吾が自分を設計者に指名し、視察してきたベルギー国立銀行をモデルに、いわば力で成し遂げた仕事である。

ドイツの建築家エンデとベックマンが設計案をつくった国会議事堂は、旧幕臣で旗本出身の官僚建築家である妻木が主導していたが、唐津藩の下級武士の家から工部大学校の教授に上り詰めた辰野がライバルとして立ちはだかり、政府の審議の場でコンペ方式に持ち込もうとして妻木の政治力に遮られた。しかし、残された東京駅という帝都の顔のデザインは辰野が奪い返し、妻木はついにこの地方出身の若い野心家に屈したのである。

 

日本橋 麒麟の象(意匠 妻木頼黄)

日本橋 麒麟の象(意匠 妻木頼黄)

 

 そんな妻木にとって最後の舞台となったのが日本橋の立て替えという事業であった。日本橋の創建は一六〇三(慶長八)年に遡り、以降記録に残るだけでも十八回もの建て替えが行われてきたといわれる。もちろん火事や水難、老朽化など、木造橋の持つ限界がこのような頻繁な建て替えにつながってきたのである。それが、明治に入って一八七三(明治六)年に行われた架け替えでは、それまでの水運を重視した

太鼓橋型の構造から、馬車など道路交通の変化に合わせた水平型の構造へと変化し、デザインも青いペンキで塗装した西洋型の橋へ替えられた。

 老朽化したこの橋を架け替える計画は日露戦争の勝利でにわかに具体化し、東京市の技師の樺島正義と米元晋一の設計で竣工した新しい日本橋の開通式が行われたのは、東京駅の開業式典から遡ること三年、一九一一(明治四四)年四月三日のことであった。着工から二年半、その燈柱のデザインが妻木に要請されたのは、江戸東京と日本文化の来歴を象徴する構築として、この橋に時代が求めるものが何であったのかを浮き彫りにする。

 

 〈今や東京市は着々市区改正の歩武を進め、家屋の形式も亦暫次洋風となり、若しくは和洋折衷となり、将に旧事の面目を一新せんとす。此時にあたり、ひとり橋梁のみ古撲の形態を存すべけんや。宜しくその規模を宏壮にし、その装飾を華麗にし、これを帝都の偉観と為すべきと共に、江戸名所の一つとして、三百年来の歴史を有する古蹟を回顧せしむるの必要あり〉

 

 日本橋の再構築について、妻木はこのように大いなる夢を語っている。

 手がけた夥しい建築物とその設計に果たせなかった、おのれの来歴と故郷の夢。

 維新で失われた江戸の夕映えと水辺の賑わいが、そこにはあった。

 

 日本橋の意匠の指揮を要請された妻木は、ルネサンス様式の採用や橋梁の切り石積みの仕上げなど設計の主だった部分にも大きな役割を担ったが、とりわけその「日本趣味」と江戸という風土と結んだ美的な趣向が生かされたのは、橋上の燈柱を飾る意匠であった。

現存する日本橋の橋上の燈柱には、中央の大燈柱に東京市の市章を楯に持った「獅子」の彫刻に榎の葉と松の文様が配されている。かつて一里塚の指標だった榎と街道の松の意匠は妻木が記憶に刻んだ遠い「江戸」が呼び起す過去のシンボルであろう。

一方、台石の左右の中燈柱には「瑞祥」を意味する想像上の動物の「麒麟」の像が掲げられている。「王者至仁なるときは即ち出ず」と妻木はその意匠の由来を説く。

 

〈明治の聖代に架設せることを記念し、及東京市の繁栄を祝福するには、最も格好の物象なり〉

 

この麒麟像に大きな翼を付しているのは、日本橋が道路原標のある全国の交通の起点であるということに加えて、日露戦争の勝利で近代国家として飛躍する日本とそこへ導いた「明治」という同時代への祝祭的な寓意が込められているとみることができる。

現存する日本橋への架け替え計画ではじめて具体案が提示されたのは一九〇二(明治三五)年、東京市の技師、金井徳三郎がまとめた石造のアーチ橋の案があった。

模型の図像も残されているこの計画案は、パリのポン・ヌフをモデルにしたフランス・ルネサンス様式に基づく西洋式橋梁で、電車など新しい交通体系に対応した近代都市にふさわしい計画であったようにみえる。しかし、この計画が実現を見ずに終わった大きな要因は、その橋梁上に配される装飾の彫像との調和の問題であった。

この案では江戸東京の歴史の開祖ともいうべき太田道灌と徳川家康の彫像を、橋の上に配するという計画が示され、それが賛否の論争の的となったのである。

確かに当時の図版に示されたフランス・ルネサンス様式の石造の二重橋の上に掲げられている、兜を身につけ弓を手にした二人の武士像を見ると、この時代の記念碑的な像主としては「守旧的に過ぎる」という批判に加えて、和洋折衷のバランスを失しているという批判の対象になったことは想像しやすい。

妻木はこの金井案の挫折を踏まえた上で、新たな日本橋の装飾意匠を考えたのである。

 

〈装飾の設計につき最も苦心せるは、その橋体との調和渾成を得るに務めたること其の一なり。日本橋は帝都橋梁の重鎮として、美観と共に威厳を具へざるべからず。又日本橋は、古来里程の元標たるの寓意を示さざるべからざること其の二なり。而も務めて日本趣味を以て、典雅安定の趣致を表現せんとすること其の三なり〉

 

「麒麟」と「獅子」の像はその和洋のバランスのなかで、妻木の夢と職人たちの技量をつないでおのずから形をなしていった。妻木が彫像の意匠を委嘱したのは江戸の鋳物師の伝統を継ぐ彫刻家の岡崎雪声と西欧彫刻にも明るい渡辺長男の二人であった。

ルネサンス期のイタリアの彫刻家のドナテーロの獅子像や西欧のドラゴン像、薬師寺の狛犬など和洋の「麒麟」と「獅子」のモデルを参考に求めて、二人の彫刻家を指揮しながら妻木は自らあたためてきた「日本趣味」を日本橋の装飾意匠のなかに実現させた。

 

一九一一(明治四四)年四月三日。

 華麗な姿をみせた日本橋の周辺には日の丸の旗が飾られて、祝祭の気分を盛りたてていた。五十二歳の妻木はゆっくりと橋のたもとの祝賀会場へ足をすすめた。

 新たな日本橋の橋銘は最後の将軍、徳川慶喜に願い出た。このとき七十三歳の慶喜は喜んでこれに応じた。千石取りの旗本の嫡男として九歳で幕府の瓦解を経験し、幼くして両親を失う非運と没落のなかから新政府の建築官僚とし身を興してきた妻木にとって、遠い江戸の賑わいの記憶を呼び起す日本橋の意匠を手がけて完成させ、その橋銘を主君である最後の将軍から得て、いまその場に身を置く。

これに過ぎる喜びはあるまい。開通式のあと、東京市長の尾崎行雄を先頭に渡り初めが始まった。慶喜の養子の家達公の顔もその行列に見える。開通を祝って柳橋や新富町から集まった芸妓衆の賑やかな音曲が響いてきた。

若い日に留学した米コーネル大学の卒業論文では日光東照宮と芝増上寺という徳川家の霊廟建築を高く評価するなど、建築家としてもともと妻木が「日本趣味」の源流へ寄せる関心は大きかった。一八九六(明治二九)年には内務省の「古社寺保存会」委員となって、いわゆる文化財保護行政にかかわってきた。これと並行して東大寺大仏殿修理など明治大修理を手がける一方、近世の伝統建築の応用などでその仕事は「和三洋七」の現代建築へ向かう傾向を日増しに強めてきたのである。

「これでいい」と妻木は思う。「あの人もこれを喜んでいるだろう」。

いま目の前にある日本橋を飾る「麒麟」と「獅子」の意匠は、もとをたどればあの人の示唆によるものだった。あの人とは森鷗外、いまは文豪の名を恣にする作家にして軍医総監へ上り詰めた、日本を代表する知性である。

 

〈二十九日。島田を訪ふ。小倉、妻木、加治等在り。小倉は自ら政治学を修むと稱する少年なり。妻木は建築家、加治は畫工なり〉

 

鷗外はドイツに留学していた一九八七(明治二〇)年六月二十九日付の日記に、議事堂建築の研修でベルリンのベックマンのもとに来ていた妻木との出会いをこう記している。

帰国したのちも、妻木は鷗外とのか細い糸を絶やす事がなかった。鷗外は帰国した後、日本の伝統建築や生活様式についても多くの論考を残している。日本橋の装飾意匠を請け負うに当たって、妻木は若い日に異国で縁を結んだ鷗外に相談を求めた。鷗外は旗本の末裔である妻木の「日本趣味」に深い理解を示して、西洋美術との調和の上での日本橋の造形に的確な意見を伝えた。「麒麟」と「獅子」の像はそのようにして生まれたのである。

前年に長男の頼功を病でなくした。自身の体の調子もすぐれない。

ライバルの辰野金吾はいま、ヴィクトリアン・ゴシック様式の赤煉瓦造りで帝都の玄関である東京駅をこの橋のすぐ近くに建設している。

妻木が見届けている日本橋の開通のざわめきのなかで、江戸はまた遠ざかる。明治という時代がもうじき幕を閉じようとしている。

                                =この項終わり

(文中敬称略、参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

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