書斎の漂着本 (25) 蚤野久蔵 日本昆蟲図鑑①
太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)5月17日に北隆館から再版された『日本昆蟲圖鑑』である。厚紙製の外箱は痛んだようで、杉板で手作りした木箱に背の部分だけを切り取って貼ってある。右の背表紙にも縦に亀裂が入っているが、木箱に守られて綴じ糸はまだ大丈夫なようだ。持ち主がよほど大切にしていたかがしのばれる。
北隆館は明治24年(1891)に北陸3県への新聞、雑誌、書籍の販売からスタートし、少年雑誌『少国民』や『少年倶楽部』を創刊したことで出版社としての知名度をあげた。明治41年(1908)に、世界的な植物分類学者として知られた牧野富太郎博士の『植物図鑑』を発行したのをきっかけに多くの図鑑を手がけるようになり<図鑑の北隆館>と呼ばれるようになった。『日本昆蟲圖鑑』は昭和7年に初版を発行したが、執筆陣には若手も含め全国の一流研究者26人を揃えた。当時は台湾も日本の統治下だったから台北帝国大学教授で蛾の専門家の一色周知や同じく昆虫の翅(はね)の研究者の高橋良一の名前も見える。他にも後にわが国の昆虫学界をリードすることになる人物も多い。
この図鑑と出会ったのは18年前、平成8年(1996)の9月だった。めずらしく月まで覚えているのは会社帰りによく立ち寄った京都・山科にあった古書店「天山書店」の主人が「これ、漫画家の手塚治虫さんの持ち物だったらしい。でも、書き込みはあるけど名前があるわけでもないし」と言ったから。これを聞いて探究心、いや好奇心が、といったほうがいいか、ムクムクと湧いてきた。売値はたしか6千円だったが<真偽を確かめる>という約束でしばらく借りることになった。こういうところは意外にしっかりしているというか、常連の顔なじみだったとはいえ、店としては大事な売り物だから<禁じ手>以上にちゃっかりだったか。
さっそく図鑑を細かく調べるのと並行して手塚治虫の年譜や資料にあたった。私自身が手塚ファンだったこともあって手持ちの資料が結構あったのも助かった。
手塚は昭和3年(1928)大坂府豊中市に生まれた。5歳で兵庫県宝塚市に引っ越し、池田師範学校付属小学校(現・大阪教育大学付属池田小学校)から大阪府立北野中学(現・北野高校)に進んだ。昆虫趣味が高じて自分の本名「治」に虫の一字をつけ「治虫」をペンネームにしたのは小学校5年当時だったとされる。この前後4、5年が昆虫採集にいちばん打ち込んだ時期で、北野中学に入学したのは図鑑が発行される1カ月半前である。
奥付のいちばん上には「頒布番號第5614號」、右下には「定価金拾五円」とある。当時の15円はどのくらいの価値だったかというと、大学を出た学士の初任給が月30円、お手伝いさんが3円から5円、一軒家の賃料が10円ほどだ。少し毛色は違うが東京農業大学昆虫研究室の神谷一男博士の入門編『昆蟲ガイド』(科学主義工業社)は翌年7月、3千部発行で価格は3円である。つまり図鑑はマニアからすれば欲しかったかもしれないが相当高かったわけである。
2千ページ以上ある図鑑を1枚ずつ拡大鏡で繰り返し調べた結果はこうだ。名前に赤丸や書き込みがあるのは虻(アブ)科と蚊(カ)科の約40種で、いずれも素木(しらき)得一博士と山田信一郎博士の執筆のところだった。素木博士は北海道出身、札幌農学校(現・北海道大学)を卒業し台湾総督府の農業試験場から台北帝国大学で名誉教授になった昆虫学者である。初めて天敵を使った害虫駆除を成功させたことで知られる。山田博士は新潟県出身で広島高等師範(現・広島大学)博物科を卒業した蚊の専門家でインドネシアや中国南部での蚊が媒介する風土病を研究した。東京大学などで研究を続け、蚊の膨大な標本を残している。アブと蚊、しかもスケッチや書き込みが顕微鏡を使わないと観察できない微細な器官、部位なので専門研究者によるものと思える。代表的なものを紹介するとこんな感じだ。
左のスケッチが背中の拡大で、矢印で「ここの所が異ル」と書きこんでいる。そして右の書き込みには青鉛筆で「老黒山十月十一日頃ミル」とあった。
この書き込みは手塚自身によるものなのか、そして文字のクセは?そのためにはナマの資料を実際に見てみたいと思って次の休みに宝塚市立手塚治虫記念館に出かけた。図鑑を慎重に包んでカバンに入れて持参したのは言うまでもない。
(この項、続く)