書斎の漂着本 (26) 蚤野久蔵 日本昆蟲図鑑②
前回の『日本昆蟲圖鑑』の続きである。この2.5キロもある図鑑を持って休日に勇躍、手塚治虫ゆかりの宝塚まで出かけたところまで紹介した。
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手塚治虫記念館は手塚が5歳から24歳までの約20年間を過ごした宝塚市の武庫川沿いにある。阪急電車の宝塚駅を降りて宝塚大劇場に向かう「花の道」を通るのは、歌劇ファンでもないから“遠慮” して、武庫川を渡る一つ手前の宝塚南口からのコースにした。その2年前に記念館が開館したことを知り、機会があればぜひ訪ねたいと思っていたのと関西学院大に進んだ親友の下宿が近くにあって土地鑑があったのも助かった。
宝塚大橋を渡っていくと川向こう左手が大劇場、右手東側が記念館という位置関係だ。大きさからいうと大劇場には圧倒されるが、記念館のほうはヨーロッパの古城を思わせる。壁面にチタンを貼った円塔のてっぺんには遺作の「ガラスの地球を救え」をモチーフにしたガラス張りの屋根を兼ねた「地球」が見えてすぐにわかった。目ざす常設展示「ジオラマ手塚治虫の昆虫手帳の宝塚」は地階にあった。愛用の黒ぶちメガネや万年筆と並んで北野中学2年生から書きはじめた手描き精密画を添えた『昆蟲戦線記』などがある。ケースの中にあったのをガラス越しに読ませてもらったが、現在の当用漢字の「昆虫」ではなく「昆蟲」が使われてはいたが、それは当時では当たり前だったわけで、実際に見ることができた手塚の細かな字体は図鑑の書き込みとは違う印象だった。がっくりである。
それでもせっかく来たのだからと思い直し、研究員の方に挨拶して訪問目的と後日、質問事項を手紙でおくるのでぜひよろしくとお願いした。来館者が多くそれ以上は難しそうだったからでもある。帰りは図鑑がやたら重かったことだけは記憶にあって、いつもならついでに立ち寄る阪急梅田の「古書の街」にも行く元気はなかった。
手元に10月8日付で記念館からもらった手紙のコピーが残っている。なぜコピーかというと現物は古書店の主人に渡したからだろうが忘れてしまった。
当館には手帳の『昆蟲日記』、手書きの『昆蟲戦線記』『昆蟲の身の上ばなし』をはじめ愛用していた『原色千種昆蟲図譜』『原色千種続昆蟲図譜』『趣味の昆蟲採集』などの本を収蔵しております。そのなかで『昆蟲日記』は昭和17年(1942)10月4日=当時13歳から昭和18年(1943)10月23日=当時14歳にかけてつけていた昆虫に関する日記で、蝶と蛾がほとんどで、それらの関係を研究しています。この手帳は友人間の情報交換の役割を果たしていただけでなく、自分が欲しいのや、交換しても良い昆虫のリスト、今後の採集計画などを連絡し合っています。友人への連絡には次のものがあります。
小生これからクソムシをせんもんにすることにきめました。よろしく御指導ねがいます。
自身が採集したものに限らず、昆虫に関する知識が「豆知しき」として記述されていますが、アブ、カはなく、「手塚治虫所蔵昆虫標本目録」にもないようです。
昭和18年(1943)9月24日(金)箕面奥山でヒラタアブ1種、クロヒラタアブ1種、他24種の昆虫を採集しています。このうちセンチコガネ、蝶と<29世紀ノ昆蟲>に関して絵があることから想像上の昆虫と思われます。地図に描かれた採集経路・採集昆虫には宝塚、生瀬などがあり、今後の採集地として能勢があげられていますが「老黒山」の地名は見当たりません。
手塚所蔵の本にはページの隅にパラパラ漫画を描いたものはいくつかありましたが、書き込みやマーキングはないようです。唯一、『昆蟲日記』の表紙裏に
OSAKAHURITU.KITANO.MIDDLE.SCHOOL.
2.5.44
TETSUKA.OSAMUSI.
というのが見つかりました。以上のこと程度しかわかりません。お役に立てなく申し訳なく存じます。なお、ご参考までに㈱手塚プロダクション資料室の連絡先をお知らせします。『日本昆蟲圖鑑』にまつわる伝説を探るという貴方様の活動、私共も大変興味深く感じております。『圖鑑』はいったい誰のものだったのか。お分かりになりましたら、私共にもご一報いただければ嬉しく存じます、とあった。
調査を依頼する手紙にそう書いたのだろうが、古書店の主人との安請け合いが<伝説を探る活動>になってしまった。ならば、と手塚プロダクションにも連絡を取ることにした。埼玉県新座市野火止のスタジオに出した手紙が、いちばん詳しいというアニメーターとして手塚作品に参加してきた小林準治氏に回り、5ページもの返事が届いた。
手塚先生は小学生から中学3年くらいまで、約5-6年がいちばん昆虫に熱中した時代でした。戦後は採集など直接の虫との付き合いは終り、ずっと漫画に専念して、それでも大好きな昆虫は彼の700(生涯の)作品のうち約180作に、いろいろな形で出ています。
現在、日本には2万人の昆虫愛好者がおり、そのうち80%が蝶の専門家で、他がコガネムシやクワガタの甲虫及び雑虫屋ということになります。その割合のように手塚作品の中の昆虫も圧倒的に蝶が多く、お話のアブやハエなど双翅目(そうしもく)も少しは出てきますが先生がそちらに熱中したという事実は小生の知る限りありません。
また先生は書き込みのクセはなかったですし、図鑑が発行された昭和16年というと手塚少年は13歳です。その頃の文字は上手いけどもう一寸(コピーの文字と比べると)子供子供していて明朝体に近いきちっとしたものです。先生はオサムシが好きで治の本名の後ろに虫をつけたのは有名な話ですが、オサムシや甲虫に興味を持ったのはほんの初期で、昆虫採集期間の80%以上は蝶のみだったようで架空チョウの図譜もずいぶん描いています。ただし「クソムシをせんもんにすることにきめました」というのは先生を昆虫趣味に導いた石原実氏で現在、大阪の老舗時計店・石原時計店の社長をされています。
手紙にはオサムシやクソムシの解説から始まって、昆虫趣味はもともと英国の貴族の趣味で、戦前は虫を採っていても白い目で見られることもなく、むしろ今よりも一般的な趣味でした、とも。さすがに日本昆虫協会の理事だそうだから、虫の話になると<止まらなくなる>とお見受けした。自身が日本のコガネムシ400種のうち110種を採集したとしてハナムグリのスケッチまで添えてあったからさすがにアニメーターであるなあと感服した次第。手紙は1996.11/3の日付のあとに「11/3は奇しくも手塚先生の誕生日で、元気なら今年で68才になられた筈です。いまだに残念です」と結ばれていた。
ここまできたらその石原氏にも会わなければならない。事前に役員秘書にアポイントを入れて大坂・淀屋橋の石原時計店の社長室で思い出話を聴かせてもらったが、書き込みクセはなかったのと字もまったく違うということを再確認しただけだった。収穫といえば「手塚はオサムシ類のなかでもとくにマイマイカブリが好きで、首が長くて目がギョロリとしているところが僕に似ているとみんなに言っていました」というのが印象に残る。さらに老黒山は記憶にもないですねえ、というところで約束の時間が終わった。
『圖鑑』789ページにある右が「をさむし科のまひまひかぶり(マイマイカブリ)」である。
体長47-58ミリ、体ハ光沢ナキ黒色、少シク藍色ヲ帯ブ。頭ハ円筒形ニシテ甚ダ長ク、前頭及頭ノ両側ハ凹陥ス。(中略)本邦産最大ノ歩行蟲ニシテ本州・四国・九州二産シ、殊ニ九州ニハ稀ナラズ。
このときの<探索>は残念ながらここまでで終わったのであるが、古書店の主人には細かい報告をして随分楽しんでもらったようで、思いがけずこの『日本昆蟲圖鑑』はそのお礼としてわが書斎にやってくることになった。
今回の連載を書いていて実は<新たな情報>が見つかった。前回紹介した青鉛筆で「老黒山十月十一日頃ミル」とあった書き込みの地名についてのデータ検索で、旧満州、現在は中国黒竜江省になったが、そこにあった町の地名がヒットしたのである。ハルビン市のはずれにあたる。他にも老黒山(ろうこくざん)という活火山もあった。中国名でラオ・ヘイ・シャンと読むこの火山のほうは違うとしても、老黒山と呼ばれた町ではじめて「体長13-15ミリ、北海道・本州及九州二産ス」という「こまばむつほしひらたあぶ(片仮名も同名)」を捕獲したからうれしくなって記入したのではないか。
そんなバカな、と言われそうだが同じその100ページのところに挟んであった右の目印にしたらしい短冊を裏返すと「朝鮮戸籍及寄留例規昭18」と書かれている。
26人の執筆者のなかには当時の関東軍の下部にあったある研究組織に属していたとされる研究者もいる。本人とはいわないまでも、その教え子の研究者がこの図鑑を携えて赴任していた可能性もひょっとしたらあるかもしれない。
いずれにしてもいまとなっては確かめようがない。だが、書き込みにせよ、この短冊にせよ、両方とも韓半島、そしてさらに北、旧満州の<方角>を指すのである。