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新・気まぐれ読書日記  (14)  石山文也 書庫を建てる

『書庫を建てる』(松原隆一郎・堀部安嗣、新潮社)は、「1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト」という副題が付いている。新聞広告を見つけたときに副題から「狭小住宅なのにどうやって1万冊もの本を収納するのだろう」と勘違いしてしまった。狭い住宅なら真っ先に本の置き場所が問題になるし、本棚ひとつ置くにしても肩身が狭い。もういちど読んで「書庫としての狭小住宅」ということに気づいたけれども。

『書庫を建てる』松原隆一郎・堀部安嗣、新潮社

『書庫を建てる』松原隆一郎・堀部安嗣、新潮社

かくいう私、新本であれ古本であれ、仕事で使う本をのぞき、購入する動機はただただ<わが好奇心による>と思っている。手帳に挟んでいた何年か前のメモ帳に「書斎・書庫は好奇心の抜け殻の収納場所」という走り書きがあって苦笑したことがある。当然ながら油断すると、こちらは「家人として」であるが、家のあちこちに本があふれかねないから自分の部屋以外には本を置かないという暗黙の約束がある。だから「あふれさせない工夫」には昔から興味があって書斎や書庫に関する本や雑誌を見つけるとつい購入してしまう。それがまた悪循環になるので『センセイの書斎』(内澤旬子、幻戯書房)以来<封印>していたのに、最初の勘違いもあってどうしても読みたくなった次第である。

最初に紹介しておくと松原は社会経済学者。東京大学大学院総合文化研究科教授で施主。堀部は建築家で、以前に東京・杉並区阿佐ヶ谷にある松原の自宅や夫人の店の改装を手掛けたことがある間柄だ。松原家との出会いは堀部がまだ無名時代の処女作である鹿児島の<南の家>と<ある町医者の記念館>の2枚の写真を見た夫人が、一目でその静謐な雰囲気が気に入ったことがきっかけになった。

最終的に2011年11月に松原が購入した土地は、自宅近くの同じ阿佐ヶ谷の北側が早稲田通りに面した変形四角形の角地で、広さはわずか8坪。具体的な数字でいうと一辺がそれぞれ4.39m、6.47m、4.71m、6.25mで用途地域は「近隣商業地域」、高度地区は「第二種高度地域」、建坪率は80%、容積率は300%だった。早稲田通りは路線バスをはじめ通行量も多い。本の展開としては、ではこの土地にどんな建物ができるのかということだろうが、序章の「家を建てるわけ」で、本のためだけではないことが明かされる。

その3年前、神戸にいた松原の父が亡くなる。阪神・淡路大震災で神戸・魚崎にあった実家が全壊、その後再建したものの近所に住んでいたすぐ下の妹も亡くなり、後を追うように母も他界、父は再建した実家で一人暮らしをしていた。葬儀の後で実家を片付けていた長男の松原は古いアルバムを見つけた。そこには祖父が戦前営んでいた海運会社に関係する進水式の写真だった。アルバムには他にも多くの写真が残されていた。

書庫-3

祖父・松原頼介は山口県の鋳銭司(すぜんじ=現・山口市)出身で、大正初期に中学を中退すると兄とフィリピンに渡りバナナ農園で働いた。しかし小柄だったので仕事はきつく、一年足らずで帰国に追い込まれる。ほうほうの態で神戸にたどりついて始めた船具関係の商売で成功すると綿帆布、防水帆布を手掛ける松原商会を設立する。自ら発明した布の表面をコールタールでコーティングした防水加工技術は冬場の零下30度でも固まらず、畳める防水シートとして満州事変後に南満州鉄道にも採用され売れに売れた。2か所の工場では200人を超える従業員を抱えるまでになる。神戸市の納税ランキングでも5指に入り、朝鮮半島や大連の支店へは自家用飛行機で行き来した。

しかし戦争が行く手を阻む。繊維が配給で入手難になるとさらに国策で大手会社への傘下入りを迫られた。仕方なく会社を売却し、それを元手に機帆船による海運業に鞍替えし、一時は8隻もの船を所有していたがこれもふたたび軍に徴用されてしまう。

戦後は川崎製鉄から仕入れた鋼板の切屑の「耳」を材料とした伸鉄会社が朝鮮戦争特需で当たり、二度目の起業に成功する。松原の記憶にある祖父は従業員にも愛され輝いて見えた。しかし、父が社長として継いだ会社のほうは公害問題などでもつまずき、オイルショックの不況から立ち直ることができないまま債務超過に陥り、川崎製鉄に経営支援を要請する。会長として会社を手放した祖父は昭和63年に90歳で亡くなる。口癖は「二回大きな事業をやって、儂(わし)の人生は面白かったのう」と「仏壇は隆ちゃん(孫の松原)まででええから守っといてくれるか」だった。

祖父の遺産が散逸することを嫌がり親戚まで訴訟に巻き込んだ父とはほとんど絶縁状態になっていたから「家」の記憶をつなぐアルバムの写真に導かれるように松原夫妻は旅をする。進水式のあった愛媛県松山市沖の怒和(ぬわ)島、祖母の実家のあった兵庫県揖保郡御津(みつ)町、祖父が帰国後に<流れ着いた>神戸市兵庫区は、ダイエーの創始者となる中内功が幼少から青年期を過ごした実家の「サカエ薬局」があった町内とも重なることも分かる。祖父だけが引き継ぐべき「家の来歴」だった。

堀部のほうはどうだったのか。建築家としてのスタートとなった鹿児島の2物件は、親戚からの依頼だったから26歳で独立したからといって仕事に結びつくことは全くなかった。その後の1年間は事務所で音楽を貪るように聴き、音楽に飽きたら本を読み、そのまま昼寝をして一日が終わる毎日だった。そんな折、あるインテリア誌に紹介された鹿児島の作品を見た松原夫人から自宅の改装をお願いしたいという電話が入る。会ってみると具体的な要望はほとんどなく「あなたの作品からは哲学性と詩情を感じるから、その才能を生かして欲しい」というものだった。大学の先生という先入観のあった松原のほうも、どうしても設計に反映してほしいという要望以外は「じゃあ、任せたのでよろしく」だけで拍子抜けした。これが17年前の出会いで、その後も全く変わらない。

当初プランからあっと驚く最終プランまで2回の大幅な設計変更、予算、工務店探し、職人の奮闘・・・施主、設計者と違った立場からエピソードやときには苦労話が細かく語られていく。そして完成したのは表紙に紹介されている螺旋階段をもつ半地下、地上2階建ての書庫である。外壁は小豆色、簡単に構造を説明するとコンクリートの箱の中に書庫部分の円筒と書斎・台所・シャワールーム・トイレ・寝室を各階に配したもう一つの円筒が「くり抜かれて」いる。厚いコンクリートが外の騒音をシャットアウトし、トップライトの天窓からは柔らかな太陽光が差し込む。

書庫-2書庫-1

ゆるやかな螺旋階段をたどるとジャンルごとに配置されたすべての本のタイトルを見ることができる。抜き出した本は上の写真奥の書斎に運ばれ、用が済めばまたもとの位置に戻される。夜遅くなると、自宅に戻らなくてもそのまま泊まることができる。

祖父と松原の<約束>であった仏壇は、2階の壁をくり抜いてはめ込まれた。それが下の写真である。堀部は、図書館のように多くの本が集まり、それらを一堂に眺めるとそれは人類の<記憶>の集積のように見えてくる。そこに<個人との記憶の象徴>といえるような仏壇が加わることでその記憶の濃さが何倍にも深まっていったのではないだろうかという。阿佐ヶ谷の書庫の本棚に収まった仏壇を見て安堵したその感覚も「お祖父さんがこの空間を許してくれた」そんな感慨だったのだと思う。孫に当たる人の蔵書に囲まれて眠ることを許してくれ、そしてそれを居心地良く思ってくれたように感じることができたのだ、と結んでいる。
ではまた

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