書斎の漂着本 (31) 蚤野久蔵 アリューシャン探検
『アリューシャン探検』(I・W・ハッチスン著、春山行夫訳、昭和17年)は、新潮社の「世界探検紀行叢書」の1冊である。巻末の出版案内には他に『海と密林の旅』(トムリンスン)、『笑ひなき國』(C・カマル)、『アフリカ紀行』(J・ハックスリ)が紹介されている。紹介文には「大東亜の黎明が来た。我が日本人が世界を舞台とする日が来た。この秋、わが社は探検紀行叢書を刊行、先人の偉大なる足跡を以て今後の活躍の一助となし、世界各地の現状を知って東亜の将来を卜(ぼく)せんとする。各巻いずれも写真挿絵豊富で世界的名著として定評あるもの。御期待を乞う」とある。B6判、各冊1円80銭、送料15銭で、発行部数は7,000部だった。
ご覧のように表紙は何の変哲もない装丁で、函はない。20年以上前に大阪の古書店で購入したようで「北区豊崎、書砦梁山泊」のシールがある。探検記としては珍しいベーリング海峡やカムチャッカ、千島列島など「北洋ジャンル」の棚に並べていた。
今回の『書斎の漂着本』のリスト作りで改めて読み直すうちいくつか興味深い<発見>があったのでそれから。
まずは著者のI・W・ハッチスンという人物。訳者の詩人で随筆家としても活躍した春山行夫は「あとがき」で、著者はスコットランド生まれの植物学者でフルネームはイゾベル・ウイリ・ハッチスン。グリーンランドに次いで1933-34年にアラスカの極地を旅行した『白霜に縁どられた太陽の北方へ』でスコットランド地理学会から受賞、今回の原題は『アラスカよりアジアの飛石』であると紹介している。いささか言い訳になるが、同じイギリス人でもイザベラ・バードならすぐに、女性旅行家で『日本奥地紀行』などを残した、などと思いついたのだろうが、著者のハッチスンも<同じく女性だった>とは読み直すまで気付かなかった。春山も<当然のこと>としてどこにも書いてはいないし国立国会図書館のデータベースにも1889年(明治22年)生まれとあったが性別と没年はなかった。
ようやく気付いたのは52ページまで進んだところ。アラスカ・コヂアク島の聖ポール村で、熊狩り名人だという旅館の息子が、著者の植物採集道具を入れた重い箱を「奥さま、どこに運びますか?」と尋ねる場面である。そうだったのか、と失礼ながら年齢を逆算するとこの探検行は1936年の6月から9月まで行われたので46、7だったか。他にも靴屋の主人の「お前さんがイギリスの学校のために働いている女の人ですか?」という問いかけに「たぶんそれは私でしょう」と答えると「そうですかい。わつしはこの島へ植物学者が御座ったと聞いた時から、お前さんにお目にかかりたいと思っておりました。ごく珍しい花が、わつしが前に住んでいたアラスカのマクヌスカ河の上流に、咲いていることを教えてあげたいと思いましてな」のところなどは出会う人々が親しみを込めて彼女に接しているのがわかる。女性と分かっただけで読むほうのイメージが変わるというのはふしぎなものですねえ。
とんだ寄り道をしたが、本の冒頭でアリューシャン列島とはどんなところにあるのかが書かれる。
地理的、歴史的に、アリューシャン列島は世界で最も興味のある小島のつながりである。ちょっと地図を見ただけでもわかるが、世界で最も近づきにくい場所のなかにはいっていることも書き添えておこう。荒れ狂う潮衝(潮流が衝突して起こる激浪)、暗礁に白く砕ける波、潮流、浅瀬、さらにしばしば起こる海底地震、それらが頭を雲に隠した活火山と、高山植物の咲いた草原をとりまいて、臆病な航海者を遠ざけている。住民のほとんど見られない海岸は、狐や海驢(アシカ)や川獺(カワウソ)などの安全な避難所に役立ってはいるが、その土地を領有するアメリカにとって商業的価値は皆無である。
ただこの列島がアジア・アメリカ間に飛石のように横たわって、新世界と旧世界とを結ぶ一種の橋、あるいは交通路となっている点に、ある種の戦略的重要性をもっている。15乃至20のやや大きい島嶼と、万以上もの小島乃至岩礁から成り立っている。それらはかって両大陸を繋いでいた山脈が海底に沈んで、その一部分だけが水面にあらわれているだけだといっていい。アラスカのケナイ半島から西方へ、原始的な怪物の骨格を並べたように、カムチャッカ半島に向かって1,900キロの延長をもち、暖かい日本海流を南方に逸らせてアラスカに大きな気候的影響を与えている。列島のうちで自然の良港をもつのはキスカだけであるが、そこは最近アメリカ海軍の軍用地となった。米側の最西端をなすアッツ島から、カムチャッカ半島のペトロパブロフスクまではわずか930キロしか離れていない。
ハッチスンはイギリスから船で大西洋を渡り、大陸横断鉄道に乗ってアメリカ西海岸のシアトルにやってきた。もちろんたったひとりで、である。当初の計画ではアリューシャン列島とさらに北、ベーリング海峡に面したノーム周辺で植物標本を採集する予定だった。定期航路が少ないうえ濃霧や荒天で欠航することが多いなど気候の気まぐれで旅行計画そのものが立てられなかったからだ。ところが幸運なことに最初に渡ったコヂアク島の聖ポール村で2週間調査ができ、そこで捕まえた新造船・スター丸や警備船・チェラン号に乗船することでアリューシャン列島のアトカ、アムチトカ、アッツ、キスカの主要な島々での上陸調査ができた。なかでも最西端の有人島のアッツでは唯一の港であるシカゴフに入港してわずか2時間で69種類もの貴重種を採集した。ほとんどがアジア方面からの強風で運ばれた種子が根付いた植物で、他の島々では全く見られないものだった。続いて上陸した無人島のキスカでは2日間滞在したが活火山である島の様子や港が細かく紹介されている。
最後にもうひとつの<発見>があった。
大本営は昭和17年5月5日にミッドウェーとアリューシャン列島西部の攻略作戦を命令する。
6月5日から始まったミッドウェー海戦は4隻の空母を失うなど大敗北で戦局は大きな転機となったことで知られる。しかしもうひとつのアリューシャン作戦はそのまま決行され、キスカが6日、アッツは8日に占領された。この本の企画は当然ながら数年前に立てられて進められたのだろうから作戦とはまったく別であるが、発行日はその直後の20日だった。そしてなぜか奥付の定価の上に紙が貼ってあり、定価が1円80銭だったのが1円40銭に値下げされている。
右上の丸で囲んだ「停」の意味はわからないが、訂正するにしてもよほど急いだのか斜めに貼られている。
国民の大半はやれキスカだ、アッツだといってもそれがどんなところなのかはまったくといっていいほど知識がない海の果ての辺境の地だったから、まさに時宜を得た出版となったことは間違いない。
そうすると<棚ぼた完売?>をめざして値下げされたのだろうか。訳者の春山がハッチスンの旅行記を選んだ理由として「アリューシャン列島を書いたものとしては唯一である」ことを挙げているが、結果的にせよこの本が<現下の問題地域の有力情報>の一つとして大いに活用されたことは想像できる。ひょっとしたら大本営でもこの本が話題になったかもしれない。こんなところにも戦争の影響があったとすると興味が尽きないですねえ。