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書斎の漂着本 (41)  蚤野久蔵 海の俳句集  

この連載ではわが書斎にやってきた本や資料を<漂着してきた>と称して紹介してきた。そのなかではいちばんの<新顔>である。つい先日、京都・下鴨神社境内の糺(ただす)の森で開催された「下鴨神社納涼古本まつり」の300円均一コーナーで偶然見つけて手に入れた。太平洋戦争開戦の前年、昭和15年(1940)に日本政府が旗振り役となって大々的に行われた「紀元二千六百年記念」の奉賀記念に日本郵船が発刊した『海の俳句集』である。透明セロファンの袋から慎重に取り出して見ると題簽(だいせん=表題)はなくなり、わずかに日焼けあとが残るだけで、上の方には2か所のシミがある。背表紙にある日本郵船株式会社の文字もちょうど「日本」の2文字が剥がれ落ちている。しいて購入動機をあげるとすれば「海」の一字に惹かれたのと、300円なら格好の<来場記念>になると思ったから。

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数年ぶりに出かけた「古本まつり」のほうは、このあと人に会う約束もあったし間もなく雨が降り出しそうだったので長居もできず早々に退散した。もう少し探せば同時に発刊された『海の和歌集』もあったかもしれないとか当時の時代背景などについては自宅に戻って調べた<あと知恵です>と初めに告白しておく。

記念行事は神武天皇の即位から2600年にあたるとして「神国日本」という国体観念の徹底により国の威信を内外に広く示し、長引く日中戦争による国民生活の窮乏を一時的であれ、逸らせる狙いもあった。当初計画された東京オリンピックや万国博覧会は最終的には中止、または延期になったが、奉祝武道大会や美術展覧会が開催され、記念切手や記念映画も作られた。多くの勤労動員を募って宮城(=皇居)外苑の整備や橿原神宮、宮崎神宮の神域拡張、天皇陵の参拝道路の整備などが遂行される一方では北京神社、南洋神社(パラオ)、建国神廟(満州国)などが建立され、神道の海外進出が企てられた。

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題簽と表紙画などは津田青楓とあり、裏表紙(右)には日本郵船のシンボルマークが配されている。津田は京都出身の画家で農商務省の海外実習生として安井曽太郎とともにパリへ留学した。アカデミー・ジュリアンで学びアールヌーヴォーの影響を受けて帰国後は二科会創立に参加する。友人の京大教授河上肇の影響でプロレタリア運動に参加したことで昭和4年(1929)の第18回二科展ではそびえ立つ国会議事堂と粗末な庶民家屋を対比させた『ブルジョワ議会と民衆の生活』を出品したのが警察の圧力で題名を変更させられた。このときから警察サイドからは目を付けられていたから翌年出品した小林多喜二の虐殺をテーマにした『犠牲者』で検挙されてしまう。長く留置されたものの処分保留で釈放され、その後は日本画に転じた経歴を持つ。親友に夏目漱石がおり、漱石の『道草』や『明暗』の装丁を手がけたことで装丁画家としての実績が認められていたのだろう。さらりと書いた題字もそれぞれが微妙に違ってなかなか味があります。

奉祝行事は来賓接待など総てにわたって<簡素であるべし>が徹底された。この俳句集も四六判簡易装丁の本文187ページに約千句が収められ、季題索引と編集覚書が付けられているが函はない。なかの「とびら」(下左)は表紙と同じカットが描かれているが次ページはあっさりと「奉祝紀元二千六百年」の活字だけである。発行所は日本郵船株式会社船客課で定価の位置に「金五円」の紙が上から貼ってあるところを見るとあるいは諸物価値上がりで急遽「値上げ」されたのかもしれない。

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「四面環海の我国にありては、潮騒の響き、浪風の声、すべて我等の詩であり歌であり又俳諧である」から始まる「序」を寄せた大谷登は、当時の日本郵船の社長だと分かった。道理で「以て国民海事思想の普及に一助の功を」とか「七つの海に海運報国の航跡を引いて休むことを知らぬ我が社の」などと続く。

編集覚書には参考文献として芭蕉の『俳諧七部集』から始まり、其角、去来、蕪村、近代俳人では子規、虚子、碧梧桐、蛇笏、石鼎、たか女、誓子、秋櫻子、草田男の句集が並ぶ。いずれもおなじみの<俳人山脈>ではあるが、試験問題風に「それぞれの姓を書きなさい」といわれると書けるかどうかは自信がない。続いて物理学者の寺田寅彦、詩人の室生犀星、作家では夏目漱石、芥川龍之介、内田百閒、横光利一と書いていくとまさに<綺羅星の如く>である。漱石は子規の親友で門下生の芥川や百閒も師の影響もあって俳句もよくした。自死した芥川は『澄江堂句集』を残したし、百閒も『百鬼園俳句帖』などがあるが当然ながらこのなかにある。

芭蕉の海の句といえば真っ先に「あら海や佐渡に横たふ天の川」を思い出すが<秋・天文の部>にあるのを見つけた。寺田寅彦は「初汐や白魚跳ねて船に入る」と「波洗ふ舷側砲の氷柱(つらら)かな」、漱石は松島で詠んだ「春の海に橋をかけたり五大堂」が入集している。梅雨明けの南風を呼ぶ<夏・白南風(しろばえ)>では同じ漱石門下の芥川と百閒が並ぶ。芥川が「白南風の夕浪高うなりにけり」と夕方になって風で波まで高くなったと詠んでいるのに対し、百閒は「白ばえて岬の鼻に風もなし」で岬の鼻、つまり先端には風もないと対照的である。全部で9句も入った百閒は他にも「静けさや内海に降る春の雨」、「小豆島吉備と四国に霞み鳧(けり)」、「夏雲に岬の松は日蔭なる」、「炎天の海高まりて島遠し」などがいずれも定型。「隠岐の島洗ふ高波に去る燕」ともうひとつが五・八・五と「中七」が字余りの句である。選者の好みもあるのだろうが「中八などの膨張感覚を好んだ」という百閒にしてはオーソドックスな作品である。

いちばん多く採用されたのは岐阜・大垣出身で東京帝大薬学部を卒業して東京薬專(現・東京薬科大学)の教授だった内藤吐天(とてん)である。戦後は名古屋に定住し、名古屋市立大学名誉教授となった。「早蕨(さわらび)」を創刊するなどして多くの俊英を育てた学者俳人である。冒頭の<春・春浅し>で「魚寄りに春浅き波曇りけり」、「春浅き山川海に入りて澄む」の連続2句から実に30句が採用されている。

ここまで書いてきて百閒は日本郵船と縁があったことを思い出した。年譜を調べてみると「昭和14年(1939)友人の辰野隆の推挽により嘱託となる。50歳、台湾に旅行する」とあった。辰野は東京駅や日本銀行本店を設計した日本を代表する建築家・辰野金吾の長男で東京帝大の仏文教授だった。ならば百閒もひょっとしてこの句集の仕事も手伝ったのだろうかと考えたものの、ま、それはないかと思い直した。台湾旅行の句らしきものも見当たらなかった。

吐天に次いで多いのが兵庫県津名郡(現・淡路市)出身の高田蝶衣の21句である。あくまで私見ではあるが「秋立つや無風圏内の潮の色」がおもしろいなと。さらに「海のある国うれしさよ初日の出」はこの句集の発行意図にぴったりであるとも。淡路島の南端にある生家近くの足利尊氏ゆかりの妙勝寺の庭にこの句を刻んだ石碑があるという。

それにしても編集覚書に「数限りない古往今来の俳句を見盡(=尽)くすという事は、終生の大業である。本集は仮にその渉猟の範囲を一定の限度に止めて、敢えて或いは滄海の遺珠を割愛した。補訂は今後の機会に待つ事にする。昭和十五年新秋。編者識(しるす)」と書いた編者とは誰なのだろうか。奥付にある著作兼発行者の生駒實なる人物を調べてみたがわからなかった。極めて短時間にこれだけの句を選定するというのは相当の荒業である。では何人かの共同作業だったのか。<百閒嘱託>もなかなか気難しい性格だろうからうまくいきそうにないと思うがどうだろう。

そんなあれこれを想像しながら編者が残したことば「滄海の遺珠」から超大粒の真円真珠か貴重な黒真珠を思い浮かべている。選者がたとえたのはあくまで斯界=俳句界の、であるとわかってはいても。

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