書斎の漂着本 (44) 蚤野久蔵 肺病養生法
連載開始前に作った約50回分の予定リストは、当然ながらわが書斎にあった本のなかから選んだ。書き進めながら選び直し、追加してきたが新たな購入本もあって<継続更新中>である。こちらの主婦の友社から出版された『肺病患者は如何に養生すべきか』(医学博士・原榮著)も、先日、なじみの古書店の「店頭棚」で見つけ200円で手に入れた新顔である。
タダといわれても見向きもされそうにないほど傷んだ「裸本」で、タイトルと著者名、下の出版社名は、エンボス=型押し、背は金箔押しで、大正13年(1924)1月初版発行、同じ年の10月に早くも10版を重ねている。これは昭和9年11月発行の48版「改訂版」で、四六判の全487ページ、定価は2円80銭。傍線や書き込みだけでなく、紙を切ってわざわざ貼り付けた「付箋」が何カ所にも残っている。ということは図書館(室)などに置かれていたものではなく、個人の持ちもので、購入者本人も肺病=肺結核を患い、繰り返し読んだからこれほどに痛んでしまったのか。戦後は抗生物質などの登場で、「治癒できる病気」になったが、それまでは<死病>と恐れられ、忌み嫌われていたから、本人としても少しでも長く生きるための「最善の治療法」を懸命に探ったのだろう。
「物好きですねえ」と言われそうだが、かくいう私も<肺結核になりかけた>経験がある。広島の私立中学へ入学したばかりの5月の連休に、小学校時代の悪友を誘って近くの川に遊びに行った。よせばいいのにポカポカ陽気に誘われて泳いだが、水はまだ冷たかった。「お前らも早く来いよ」と、呼びかけたものの誰も続かない。仕方なく上がったが震えがきた。最初から泳ぎに行ったわけではないのでタオルの持ち合わせもなく、挙句に風邪をひき、悪いことにその晩から高熱が出て肺炎になった。休み明けには症状は一段落したものの、微熱が続き、レントゲン写真には「右肺に影があり、急性肋膜炎乃至肺浸潤ではないか」という診断が下った。わざわざ「乃至」と書いたのは付き添いの両親が確かめたからで、医者は「精密検査しないとはっきりしたことは言えないが、進行すると肺結核になる可能性がある」と診断した。叱られるだけなので泳いだことは言いそびれた。学校は休学して近くの国立療養所、つまりサナトリウムへ入院する羽目になった。
入れられたのは8人の大部屋で、マスク姿の主治医からは「当面、面会は仕方ないが、散歩は許可するまでは禁止。極力安静につとめること」と厳命された。病院では医師だけでなく看護師も、掃除のおばさんも、売店の係員まで例外なく常時マスクをしていて、面会者も半数はマスク姿だった。「病気ではない人の病気予防のため」だから、新参の私も当然ながら「保菌者」に分類されたわけだ。同じ病棟には何人か肺切除の手術をした人もいて、どちらかの肩が落ち込んでいたから遠目にも分かった。当時の手術法はろっ骨の何本かを切らなければならなかった。「菌は出ないから安心するように」とは言われたものの、それは目には見えないのであるから、自分もあんな重症患者になるかもしれないと初めて恐怖が湧いた。幸運にも私の場合はすでにストレプトマイシンなどが普及していたから入院4カ月で退院できたけれども。
著者の原を調べたところ、わが国に初めて系統的に「大気安静療法」を紹介した人物で、人間が本来持っている治癒力をなるべく引き出すことで病気を治す「自然療法」を一貫して提唱した。「自序」には大阪・土佐堀で原内科医院を開業する内科医で長年、肺結核の治療に取り組んできたが、薬でも注射でもない治療法を編み出し東京吐鳳堂書店から『肺病予防療養教則』という本を発行したとあった。一方、主婦の友社は主幹自らが中心となって大正6年から全国の読者から広く、全治者本人の<実体験談>を募集し誌面で紹介してきた。このなかで最も多かったのが原の『療養教則』だったので、新たに原に依頼して28回分の連載を書いてもらった。一部の同業者=医者からは自家広告(自己宣伝)だとか、学者の品位にもとるとか、あらゆる冷嘲と迫害を受け、売薬業者からも、目の上のコブのような扱いを受けたが、なにより読者からの反響がきわめて大きかったので本にまとめることにしたとある。
「現在なお、肺病患者の最多数は自分の病気を治すのに何か神秘的な特効薬や斬新な注射薬などはないかと、その詮索にばかり腐心していて真の治療法がいかに重大な意義を持っているかを少しも知ろうとしない。肺病の治療には、薬は第二、養生が第一で、<正路>はただひとつ、この本も無用のものならば数版を重ねるのが関の山であろうし、幸いにして病者からの現在の渇仰に投じるものであったなら年々歳々、益々広く全国に弘布をみるであろうし<真理>と<時>がその正しい判断を下すでありましょう」と続く。
総合雑誌『中央公論』が大正11年に80銭、昭和12年に1円に値上げされたことを考えれば、その3倍という価格は<命にかかわる>とはいえ、決して安くはなかったはずである。にもかかわらず改訂前の第25刷までに2万5千冊を販売したとあるので、この48版までとなるとその倍を売り上げたかなりの<人気本>ではあるまいか。なるほど、商売の邪魔になるから投薬や注射を勧めたがる医者や、薬品業界からは徹底的に嫌われるわけだ。
原は大気を汚す塵(ちり)は病人の大敵であるとして、家庭での安静時に和室の布団ではなく籐椅子による「横臥療法」を勧めている。病室内には塵の発生を防ぐため家具類はできるだけ少なくし、寝台=ベッドの他は籐椅子くらいにして、掃除も塵を舞い上げるから「掃く」ではなく「拭く」ように。横臥といっても横向きではなく、上を向いて横たわるのである、などと具体的に治療における態度を紹介している。目次は「結核恐怖病は前世紀の遺物」から始まり「肺病に遺伝はない」、「結核菌を持っていない人は一人もいない」と当時の医学知識が詳しく説明される。「正確なる理解と勇猛なる精神とが療養の出発点」、「肺病治療の経過を支配する最大の威力は精神力」と、一転、精神論に向かうのかと思えば「身体活力の根源となる食物――胃腸の健全は肺病治療の礎」から再び「精神の安静は肉体の安静より必要」、「肺病治療の<正路>はただ一つである」、「肺病は治病か不治病か」と核心に進んでいく。
結核で思い浮かぶのは幕末では新撰組の沖田総司、長州出身の志士・高杉晋作、明治維新後の政治家では陸奥宗光、小村壽太郎。同じく文学・芸術分野では正岡子規、国木田独歩、樋口一葉、滝廉太郎、長塚節、石川啄木、竹久夢二、梶井基次郎・・・と枚挙にいとまがない。『風立ちぬ』の堀辰雄もそうだった、とあげれば、いまや「宮崎駿監督ですね、スタジオジブリの」と言われそうだけど。<結核文学>の山には、死病=結核に倒れた無念の死屍累々である。同じ山でもトーマス・マンの『魔の山』はスイスのサナトリウムに夫人が入院したことから着想を得た。こちらはノーベル文学賞受賞の<大山脈>で、三島由紀夫や北杜夫、辻邦生に大きな影響を与えたことが知られるものの、彼を超える日本人作家は登場していない。
ところで、どんな個所に付箋が貼られているのかというと、まずは「療養地及び病室の条件」のところ。
「あまりに温暖な地方は湿度が強く、病者の体力を弛緩させるため、好ましくありません。発病から当初の六箇月は、場所はなるべく田園の地に定め、高燥の地で風当たりが強くないことが必要で、なるべく松林に近く人道車道からかなり離れたところで、かつ前面には相当の空地が必要であります。といってあまり急な坂道は好ましくありません。恢復期にあっては散歩が許される場合、坂路療法での往路は坂の緩やかな傾斜を登り、帰路はそこを下って戻るということが理想的・・・」とあるから、まさに「典型的なサナトリウム」そのもののイメージであろうか。
家庭療法での理想環境は「南向きの八畳乃至十畳くらいで南側には籐椅子の持ち出せるほどの縁側があれば更によろしい。部屋の前面には空地があること、北側には廊下が通っていて、他室と隣り合わせにならないこと」と、贅沢とも思える条件が続く。要は常に新鮮な外気を入れることだそうだが、よほどの「邸宅」でないとここまでは望むべくもない。
一方で「断食療法は肺患者には不適」とか、「滋養品でも牛肉や牛乳は滋養価が高いといっても好き嫌いもあるし、毎日連続するとかえって消化不良を起こす」という個所やバランス良くを理想とする「鯛より鰯(イワシ)安価な栄養」にも傍線が引いてある。他にも「日々のスケ―ジュール例」や「全治実験談」にも付箋が貼られている。そうかと思えば当たり前の「急がば廻れ、日々の安静」にもだからまさに手当たり次第である。「まず生活習慣をしっかり持つ」ということについてはわずか4か月の私の療養体験からしてもその通りではある。
巻末には景風園療養所長・医学博士中村善雄著『肺病は斯くすれば治る』、宮内省侍医・医学博士西川義方著『肺病全治早道、強肺健康法』に並んで、原の『肺病全治者の療養実験談』と『肺病全治者の自宅療養実験』。原が自序で「同種類の著書を他店より出版せぬの内規があったにも拘わらず<社会公益>のためとして快諾してくれた」という吐鳳堂書店の自著『肺病予防療養教則』と『自然療法』がちゃっかり主婦の友社が取次所として掲載されている。「主婦の友」の奥付には愛読者諸姉へ、とあるが、療養の注意事項に「心身の過労に注意」と書き込まれた筆跡はどう見ても男性に思える。病気を心配した奥さんか母親が、この本を買ってきたのではなかったか。果たしてこの患者さんが、必死で勉強した「肺病養生法」の効果はあったのだろうか。全治していて欲しい気がする。