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書斎の漂着本 (50)  蚤野久蔵 負るも愉し2 

檜書房の出版第一号となるはずだった徳川夢声の『負るも愉し』は、GHQの検閲にはねられたことで<幻のベストセラー>に終わった。挙句、出版界の<檜舞台に上る>のを意図して命名した出版社そのものもあえなく倒産してしまった。再び出版のチャンスが巡ってきたのは昭和26年9月8日のサンフランシスコでの対日講和条約(日米安保条約)調印によって日本が「被占領国」から脱したことによる。
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“二度目”の出版を引き受けたのは東京都千代田区丸ノ内ビルにあった二十世紀日本社で、四六判245ページ、同じ月の25日の発行で定価は240円だった。講和条約の調印を見込んで、かなり前から出版準備は進行していただろうが、直前に書きあげた「はしがき」には「明九月三日、午前六時(日本時間)吉田全権一行が桑港に到着と只今ラジオは放送した。予定通りに講和条約が調印されるものとすれば、本書が発行されるまでには私たちみんな、世界各国多数の認める独立国民となっているわけである」とまるで新聞の<予定稿>のような書きっぷりである。続けて「まことに目出たい。御同慶の至りである。然し、これからがいよいよ並大抵でないことになるであろう」とはやる気持ちをしっかり押さえている。さらに「こんど出版するに際し、そんな用心(=GHQの検閲への対応)は要らないから、目障りな俳句は全部とり去ったらどうだ、とおっしゃる人があるかもしれない。が、それだと私の日記は、ツクリモノになる。どうせ、読んで頂くなら、原本のままご笑覧を請いたい」とあるのは、あえなく倒産した檜書房からもらったゲラ刷りをそのままちゃっかり<原本>にしたからとみえる。

この時期、すっかり人気者になっていた夢声老(以下、同じ)は49歳、原稿を全面改訂する時間もなかっただろうから無理もない。日記に添えた俳句については「単なる風流の俳句なら、こんなシロモロを印刷して大勢の人を悩ますということはまさに罪悪であろう。が、この場合は、戦争なるものに面と向かった、私という凡人の心理、感情などが、最も要約的に出されているモノと信ずる。俳句というものが日本人共通の季感によって成りたつように、私のこうしたモノも、日本人共通の太平洋戦争感によって、ある程度の存在価値を主張出来ようと思う」として俳人の作る俳句は「俳句というものが」と<もの>を使い、自身の俳句は<シロモロ>あるいは<モノ>と使い分けている。「これからが並大抵ではなく難しい」とは、「どうしてこんな難しい立場におかれたか。それには、その難しさの因って来るところを知らねばいけない。勿論、私の日記を読んだからといって、それが充分に知れるというものではない。が、私という一庶民、一芸能人が、どういう風にこの大戦争を観じテいたか、掛値のないところがハッキリすると思う。それだけ、何等かの御参考になるであろう」ときっちり<我田に水を引いて>いる。ただし、さすがに宮田画伯の起用は<まんま過ぎる>ということになったのか「二十世紀日本社の意見も聞いて」宮田氏の友人の曾宮一念画伯に(装幀を)御願いすることになった。

古書店でこの本を購入した時に表紙には丁寧にパラフィン紙が掛けてあった。写真を撮影しようと剥がすと書名の「負」のところが破れていて、その部分にボールペンで書いた紙が挟んであった。姑息な!と思ったが、値段はたしか500円だったから我慢するとしよう。こうして広げてみるとなかなか味がある表紙であるし、見返しはピンクの水玉模様、中表紙も洒落ている。
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水玉模様のほうは省略するが、「洒落ている」と紹介した中表紙は白いキャンバスに赤い絵具を絵筆でササッと塗った両脇に題名と著者名が書いてある。表紙の文字などと同じ丸みのある筆跡は夢声老自らのモノだろうか。ご存知の方がおられたらご教示願いたいので紹介しておく。

太平洋戦争「宣戦布告の日」16年12月8日(月曜)晴温:
【註】によると夢声老は、神戸・新開地にあった花月劇場の『隣組鉄条網』という軽喜劇に出演していた。共演していたのは若原春江。友人でもあったコメディアンで歌手の岸井明はすぐそばの阪急会館で上映中の映画『川中島』のアトラクションに谷口又士のジャズ楽団と出演中だった。仲間内に「コックリさん占い」に凝っている人物がいたようで開戦予想を「12月10日ごろ、米国と戦争が始まると予言していたと誰かに聞いていた」とある。

岸井君が、部屋の扉を半開きにしたまま、対英米宣戦のニュースを知らせてくれる。そら来た。果たして来た。コックリさんの予言と二日違い。帳場のところで「東条首相の全国民に告ぐ」の放送を聴く。言葉が難しすぎてどうかと思うが、とにかく歴史的な放送。身体がキューッとなる感じで、隣に立っている若坊(若原春江)を抱きしめたくなる。
表へ出る。昨日までの神戸と別物のような感じだ。途から見える温室の、シクラメンや西洋館まで違って見える。阪急会館は客席ガラ空き、そこでジャズの音楽など、甚だ妙テケレンだ。花月劇場も昼夜ともいけない。
夜は芝居の途中から停電となる。客に演説みたいなことをして賛成を得、蝋燭の火で演(や)り終る。街は警戒管制で暗い。ホテルに帰り、今日の戦果を聴き、ただ呆れる。

12月9日(火曜)雨:
いつになく早く床を離れ、新聞を片はしから読む。米国の戦艦二隻撃沈、四隻大破。大型巡洋艦四隻大破。航空母艦一隻撃沈。あんまり物凄い戦果であるのでピッタリ来ない。日本海軍は魔法を使ったとしか思えない。いくら万歳を叫んでも追いつかない。万歳なんて言葉では物足りない。
日米戦のお蔭で始めてホテルの朝定食を食べる。
【註】これまで寝坊して時間過ぎになり、食いはぐれていたのである。
風呂に入り、また床に横たわり、窓を眺める。窓一杯に枝を張って見える樟樹(クスノキ)に細雨が粛々とそそいでいる。私という個人と、日米戦との関係をいろいろ考える。今度のこの大戦果に私という個人が、どういう役目をなしているか?それとも全然何の役目もしていないか?
閉場後、穴の開いた番傘を借りて、暗い街を石田守衛君(軽演劇仲間)に案内され、酒場シルバー・ダラーに行く。ジョン・ヘイグを目の前で抜いてくれ、チーズとサーディンをのせた黒パンの美味いのが出る。但し税共に三十幾円。
【註】その時は大層高いと思ったが、舶来一流のウィスキーが一杯税共五円だったのだから、今日(昭和21年1月の原稿執筆時)から考えると恐ろしく安かったといえる。

12月31日(水曜)晴、寒:
奥座敷の掛け物を替える。一年ほど掛け放しの尾竹國観作「巌の観音」像を外し、美人画「雪晴れ」を掛ける。二階も、墨絵を外して印度更紗を掛物に表装したのに替える。時節柄印度のものは面白かろう。
指先を凍らせてチューリップの球根を植えているとA画伯ふらりと来る。大晦日になって今まで足踏みしなかった人が来る時は、まず碌な要件ではない。油絵を一枚予約させられる。再び球根にとりかかり、合計百三、四十並べ植えてむしろをかけておく。
蕎麦の代わりにうどんを食う。二階に上り、火鉢に火はなく、寒む寒むとハガキを書く。年内のものは片付けておくつもり。この頃のラジオ、毎夜の浪曲は、甚だ情けなくなる。
除夜の鐘鳴らず地球は廻りをり

昭和17年1月5日(月曜):
九時起。ラジオ直ってくる。早速ニュースを聴くと、畏くも宮中に於かせられては、時局に鑑み新年宴会御取り止め、と。(以下略)

9月26日(土曜):
約五十日というもの、日記を怠っていた。色々と訳がある。
1. 仕事が忙しかった事
2. 身体の調子が悪かった事
3. 酒を飲みすぎた事
4. 死ぬのが恐ろしかった事

3.は15日に放送局主催の「南方行慰問団壮行会」。翌日は陸軍省の大講堂で出発の御挨拶演芸会のあと報道部長の訓戒激励の辞を聴き、当日は息子を連れて氏神様へお参りをして親戚が別れの挨拶にやってきたり近所から餞別の品を貰ったりしてすっかり<応召気分>になっていたところへ放送局から無期延期の電話があったため連日のやけ酒。4.は今度の南方行きで、もしかしたら死ぬかも知れないという危惧の念。――潜水艦のドカンバチャン、空中からの機銃掃射、マラリアその他の熱帯病、いろいろ材料がある、――さて間もなく死ぬものとしたら、日記など少々馬鹿げている、――天気だろうと雨だろうと、味噌汁の実が大根だろうと油揚げだろうと、そんなことはどうでも好いではないか、という気がしたのである。自分ながら実になっていないと思う。要するに、死に対する覚悟が少しも出来ていない証拠である。(以下略)

しかし「南方行慰問団」の出発の日はとうとうやってきた。
(以下、この稿続く)

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