書斎の漂着本 (51) 蚤野久蔵 負るも愉し3
徳川夢声(以下、夢声老)らの「南方行慰問団」の東京出発の日は間もなくやってきた。いったん決まった<無期延期>にはならなかったのである。『負るも愉し』にはできることなら行きたくはない心情があちこちに透けて見えたが、とうとうXデーを迎えてしまう。
昭和17年10月8日(木曜)晴:
私の居間でもあり、仕事場である二階を片づけた。本は全部階下の書庫へ納め、書簡類も然るべく処置する。乱雑を極めていた部屋が、すっきりとなる。古手紙など戸棚から引き出し、焼くべきものは焼いた。焼くのも惜しくそのまま戸棚へ蔵い込んだのも幾通かある。――万一のことがあれば生きて帰らぬかもしれない、というこのマンイチが、物事をキッパリさせないのである。死ぬに定まっていたら、勿論、躊躇なく燃やしたであろう。ハガキで風呂を焚きつける。――もしかするとこれが吾家の風呂の焚き終いかもしれない。などと考える。神棚と仏壇に、お燈(明)をあげ、今日の出発を告げた。家内中揃った食卓に私はウイスキーを飲み、もしかするとこれが最後の、と例の如く考えた。然し、賑やかな和気あいあいたる晩餐である。妻は栗飯を炊いた。
栗飯のいとうまかりし別れかな
東京駅には、一行見送りの放送局関係、蓄音機会社関係の人など大勢来ていた。改札口を通ると、私はそのまま後ろを振り向かずさっさと歩いて行った。乗り込む箱の前に私たちの一行は整列し、河元大佐の送別の辞を聴いた。大佐は自ら持参した一升瓶を傾けて一人ひとりに茶碗酒を酌せられた。とても好い酒で私は大佐にすすめられて茶碗に三杯頂いた。秋の夜の冷酒に私は陶然となった。さア、魚雷でも、爆弾でも、もって来いという気分になった事である。
一行は奈良見物や大阪陸軍病院の慰問などを終え14日に大阪港から楽洋丸(1万トン)に乗船し瀬戸内海を経由して南方に向かう。翌日は全員が甲板に集められて魚雷が命中した場合などの退船方法や漂流したときの諸注意を聞いて震え上がる。「魚雷も一発や二発では20分や30分は沈まない」という説明で少しは安心するが、あとで5分で沈没した船もあるとか、船団の2番船がいちばん狙われるという情報も伝わる。この船がそうだと知るとさらに不安が募る。それでも無事、香港から仏印サン・ジャック(現・ベトナム、ブンタウ)に入港した。出港後の夜間航海では夜光虫が美しい。
黄泉の国の海の如しや夜光虫
夜光虫たなごころにぞ映し見る
月の出の夜毎におそし夜光虫
星はみなにじみてゐたり夜光虫
夜光虫皇族の船ネオンなす
直前には「敵潜現ル!」という緊急警報が出されて全員が救命胴衣を着たあとでクジラだったことが分かり、その反動もあって夜光虫の句が一気に湧いて出た。
マラッカ海峡から昭南(=現・シンガポール)に到着して慰問を重ね、戦跡見学をするうち、さすがの夢声老も体調を壊してしまう。「妙にだるく、熱があり、もしかしたらデング(熱)かマラリアやられたのではないか」という自覚症状が出て、昭南陸軍病院に担ぎ込まれ、ここで1か月の入院を余儀なくされる。なんとか回復すると年末12月31日に昭南駅を発ってクアラルンプール(現・マレーシア)着。昭和18年の元旦をここで迎えた。
帰国の途に着いたのは1月10日。昭南港を「安芸丸」で出港、潜水艦攻撃を避けるため船団は組まず昼夜ジグザグコースで走り、1月19日にようやく無事に瀬戸内海に入った。こう書くとまるで駆け足じゃないかと叱られそうだが、航海中は慣れっこになったとはいえ往路以上に何度もの「敵潜現ル!」の警報が出るたびに救命胴衣を引っぱり出し魚雷が命中しての<ドカンバチャン>に備えた。日記には「朝、昼、夜とも、馬ケツで運ばれる汁と飯とお菜で、豚の如く食う。3日に2本ぐらいの割でビールの配給があるは有難し。夜に入るや厳重なる灯火管制、うっかり煙草を喫うと<馬鹿野郎>を食う」とあり、「船旅」のイメージとはかけ離れたものだった。
昭和18年9月3日(金曜):
動物園のライオン始め猛獣が“最も懇切なる方法”によって処分された、と(新聞に)ある。可哀そうでならない。ライオンや虎は、空腹時などに暴れ出したら困るだろうが象や河馬は気の毒である。動物園の猛獣諸君には大いに同情したが、憎みてもあまりある奴はこの頃の蚊である。散々食われて忌々しくなり、読書を中止し、雨戸閉めきり、蚊やり線香を焚くなり階下に降りて「蚊のやつめ思い知ったか」と横になり坊や(息子)の遊ぶのを見ていると、いやはや何時の間にか沢山蚊に刺されてしまった。何のこったとまたも忌々しくなり、二階に上がってみると蚊やり線香は消えていた。
花壇より採る秋茄子と茗荷かな
茄子汁に茗荷の紋を散らしけり
昭和19年3月1日(水曜):
歌舞伎座始め十九大劇場閉止の新聞記事を見て、寧ろ面白い感じである。然し、日劇と国際など大衆相手の大劇場も閉鎖されたのは意外であった。一流料理店、待合の閉鎖、芸妓の全廃など大いに面白い。世の細君方いずれも快哉を叫んだであろう。
空襲も佳しとばかりに梅咲けり
省電の準備管制おぼろかな
7月18日(火曜)炎暑、雨:
「五時頃、重大発表があるかもしれません。もし、あったら今晩の放送は中止になりますから」と放送局の大岡氏から電話があった。雷が鳴り、空は今にも降り出しそう。百日紅のつぼみの枝が風に揺れている。
重大発表待つとき夏の雨到る
寒暖計は九十二度(摂氏33.3度)五時十分前、ラジオのスイッチを入れる。
雑音も意味ありげにて夏の雨
「サイパン島の吾が部隊は・・・」と、いきなり簡単な調子で始まり「戦い得る者は、概ね将兵と運命を共にせるものの如し」という言葉で終わった。それから放送局からの言葉に従い、私も座り直して黙祷した。
玉砕の発表聴きて行水す
この『負るも愉し』を書き始めた時に私、蚤野久蔵、まさか3回も続けるとは思いもしなかった。夢声老の筆は終盤の20年8月になって間のとり方が<絶品>と評された話術と同じく、というよりそれ以上に快調に進む。広島への新型爆弾の投下、ソ連侵攻について思いを巡らすところへ「日本がポツダム宣言受諾か」の極秘情報が入る。13日、14日といずれも6ページもの日記が続き、いよいよ「降伏の玉音放送の日」を迎える。これが意外な書き出しで、庭の菜園で育てていた南瓜(カボチャ)が登場する。
昭和18年8月15日(水曜)晴、暑:
朝五時頃警報発令、空中の小競合止まず。
さて、――
数日前から、急に艶を消してしまった吾が菜園唯一の日本南瓜の実、徑二寸程になっていたウラ成りが、今朝見るとホロリと地に落ちていた。上の方についている同じ大きさのウラ成りも、昨日から俄かに色が沈んできた。試みに一寸動かして見ると、脆くもへたから離れてしまった。ここまで大きくして甚だ残念である。
元成りの一個は徑六寸ほどになり、逆さに置いた植木鉢の上で、どっしりと鎮座し、これは異常なく見える。この日本種南瓜は私が播いたのでなく、恐らく去年の種のこぼれから、自然に生えたものであるが、一時は十個以上も成りそうな勢いであった。それがどの雌花もモノにならず、今日は元成り一つに下落してしまった。
日本は本州、四国、九州、北海道と、いわば元成りだけになってしまったが、吾家の日本南瓜も台湾、樺太のウラ成り二つが落ち、一時は満州、北支、中支、南支、仏印、マレイ、ビルマ、フィリッピン、スマトラ、ジャバ、セレベス、ボルネオ、ニューギニアなど沢山の雌花をつけたが、皆モノにならず散ってしまった。ここに問題は、あれほど勢威隆々たるかに見えた、この南瓜が、なぜ途中からヘナヘナになって、あわれ元通り一つになったか、という原因だ。
まず第一に、成る上にも成らせようとして、去る八月四日に追肥をしたがこれがいけなかったか?原則として南瓜に追肥は無用ということになっている。(アンマリ戦果ヲ欲張ッタノガイケナカッタ)
第二に、数日前、根元の蔓を全部切ってしまった。これがいけなかったか?こうすれば実の方にだけ養分が行って好かろうと思ったのだ。(軍ダケニ養分ヲ集メヨウトシタ、コレガガイケナカッタ)
第三に、元成り南瓜があまり大きくなったので、自分の蔓の力では辛かろうと、鉢を底に敷いてやった。それがため、自分を支えるに要する力を、急に他へ振り向けたので、それがいけなかったか。(特権ニ甘ヤカシスギテ軍官ガ国民ニ対シノサバリ出シタ)
マア、素人考えに大体この三カ条があげられる。だが、然し、実はこの三つとも真の原因ではなく、他に重大な吾らの気のつかぬ理由があるのかもしれない。そこで私は気がついた。南瓜の事さえ容易には分からない。いわんや、一国が敗戦に落ちこんだ原因など、なかなか分かるものではないということである。
夢声老は玉音放送を自宅居間で直立して聞いた。最後の「君が代」、足元の畳に大きな音を立てて涙が落ちていった。
率直に記しておく。私はこの方(=昭和天皇)が好きである!唯物主義の最高武器によって、唯物的日本は亡び尽したのである。それでこそ、日本はめでたいのである。もし日本が、不幸原子爆弾を得て、他の人類を大量殺戮して世界制覇をしたと思へ。それは佳き日本の自殺である。それこそ、今日の馬鹿な軍人政治家どもが、更に際限もなくのさばりかえり、日本どころか世界中を地獄にしてしまうであろう。
敗けて好かったのである。
日本民族は、兵器による戦いにおいて、徹底的に敗北したという貴重なる経験を得て、これで始めて一人前の民族になれるのである。