書斎の漂着本 (52) 蚤野久蔵 実験漂流記
歴史ライター・蚤野久蔵として原稿を書くようになって早くも3年目に突入した。突入はちょっとオーバーかもしれないが、連日のように「機動隊突入!」などという新聞紙面を経験した世代にはおなじみの表現なのでつい出てしまった。ところでこの『Web遊歩人』は文字通りWebで発信する<バーチャル文芸誌>だから蚤野久蔵というのも筆名というより<バーチャル・キャラクター>と呼ぶほうがぴったりかもしれない。こう書き出したのはライター本人=私が永くやってきた海を漕ぐシーカヤックで遭難してまさに「九死に一生」を得た漂流体験をきっかけに収集を始めた漂流・漂着本ジャンルを取り上げようと思うからだ。まずは1954年(昭和29年)に出版されたアラン・ボンバールの『実験漂流記』(白水社)で、アルプスやヒマラヤでの登攀・遠征記録など多くを手がけたフランス文学者の近藤等の翻訳である。
著者のボンバールは英仏海峡横断競泳に参加するなど水泳や海が好きだったこともあってドーバー海峡に面するフランス北部の港町ブローニュ・シュール・メールの病院で医師としての第一歩を踏み出した。病院に担ぎ込まれる海難事故の遭難者の治療に当たりながらその4分の一は救助されたにもかかわらず、苦しみながら死亡してしまう現実を体験する。これを何とか改善できないかと自らを実験台として漂流航海を行うことを考えつく。選んだのは全長わずか4.65メートルのゴムボートで、表紙イラストにその「異端者号」があしらわれている。積み込むのは最低限の機材、非常用の食糧、薬剤だけで、釣った魚を絞って水分を確保し、プランクトンからビタミンCを補給する。さらに少量の海水を飲み続けるという「海水は絶対に飲むな」というそれまでの常識とはまったく違ったものだった。
写真は出発前にモナコ海洋博物館でボンバールが手に持つのが魚の圧搾器と絞り出した「魚のジュース」である。釣り上げたマグロやハタなどを材料にすることを集まった新聞記者に説明したが、誰も気味悪がって味見しようとはしなかったらしい。魚が獲れない日には網でプランクトンを採取してビタミンCを確保し、最小限の海水を飲むことで渇きをいやす計画だったが緊急用の飲料水も積み込んだ。海での遭難者を実際に治療した経験から難船後に水を飲めなければ人間は10日ほどで死に至る。ところが救助されても体内の水分は容易には元に戻らずに死んでしまうケースが多かった。では死の原因は渇きだけだったかというと遭難という「絶望」が主な原因だったと推理した。実験航海の主目的は自分を実験台にした生理的な条件を調べる生存実験ではあったが、漂流がもたらす心理面の影響も実体験することでもあった。
試験航海は昭和27年(1952)5月25日にモナコを出港、地中海の大西洋側出口のモロッコのタンジェ―(タンジール)間で行われた。乗り組んだのはパナマ国籍のヨットマン、ジャック・パーマーで、自分のヨットで、というパーマーの主張は漂流海難者と同じ環境で実験することでどうにか納得してもらった。タンジェで意見が合わなかったパーマーと別れると単独で大西洋に向けて船出した。8月13日早朝に港を出たものの地中海へ流れ込む潮流を帆に受けた風で乗り切ろうとするが風がやむなど悪戦苦闘し、翌日にどうにか大西洋へ。最初に寄港したのは約300キロ先のカサブランカだった。ここで4日間滞在して24日に出港し、11日後の9月3日にカナリア諸島に到着した。
カナリア諸島の中心ラスパルマスのフランス領事館には自宅の妻から長女誕生の電報が届いていた。空路パリへ引き返したりして再び実験航海に出たのは10月19日である。こんどはいよいよ大西洋横断で、時計回りに大きく回る北赤道海流に乗り、北東からの貿易風を帆に受けての航海する計画だった。北赤道海流の真ん中には海藻が繁茂する死のサルガス(=サルガッソ―)海があり南にはポルトガルとアフリカのコンゴから吹き付ける強い貿易風がぶつかる船乗りから恐れられる「黒壺」があった。その間をうまくたどるためには安定した海流と風が必要だったがそうはいかない。
「貿易風はいよいよつのってきた。やがて時化(しけ)となった。ある時は波頭に運び上げると思えば、またある時は波の谷底に沈ませながら、波頭はぼくを風から庇護し、あるいは風にさらした。(中略)波が真上から砕け散り、水より上に浮いているのは強力な両側にゴム・フロートだけで、他はすっかり水の中だ。ぼくには絶望する権利も、時間の余裕もない。ほとんど本能的に、まず両手で、水をかき出し、次に帽子でくみ出した」
ボートから休みなく水をくみ出す苦闘を2時間も強いられたものの何とか苦境を脱した。積んでいた器具類は防水袋の中に入れてあったがマッチは濡れてしまった。別の日には突風で帆が裂け、代わりの新品の帆が半時間もしないうちに吹き飛ばされてなくなったから裂けた帆を半日がかりで修繕した。逆に好天が続くとギラギラと照りつける直射日光を避けるすべもなく苦しんだ。そのなかで正午には六分儀を使った天測、午後2時からは血圧、体温、皮膚、粘膜検査、水温、気温および大気現象や気象観測で苦痛を紛らわせた。次に肉体的、精神的な自覚検査をやり、ラジオで音楽を聞き読書や翻訳を楽しんだ。日が陰ると再び医学検査にとりかかり、尿などの排泄量や筋肉の強度、釣り上げた魚の種類や量、同じように採集したプランクトンの活用法、目に止まった鳥の種類を記録した。
サメやシイラにも常に付きまとわれた。中には4、5メートルの大ザメもいて油断ならない。時化にはその後も何度も襲われた。何よりも孤独は体にこたえた。精神的にもかなり参った12月10日、偶然、貨物船アラカカ号に遭遇、乗船して食事をご馳走になり時計の時刻を修正しラジオ用の電池をもらう。船長からは航海を切り上げてはどうかと言われたがそれを断って再び航海を続けて同22日にアンティル諸島、バルバドス島の海岸に漂着した。地中海での航海を入れれば計113日。カナリア諸島からでも65日、体重は25キロも痩せ、出発時の赤血球500万から半分になるなどひどい貧血症になった。皮膚には発疹ができ体全体に広がりふやけた足の爪はすべて落ち、筋力も視力も低下した。嵐の中でもう駄目だと思い2回も遺書を書いた。
大西洋上で29歳になったボンバールはこの実験航海で「伝説の海難者たちよ、死を急ぐ犠牲者たちよ、諸君は海のために死んだのではない。諸君は飢えのために死んだのでもない。また、渇きのために死んだのではない。諸君は鷗(カモメ)の鳴き声を聞きながら、恐怖のために死んだのである」という名文句を残した。
冒頭、ライター本人=私がシーカヤックで遭難してまさに「九死に一生」を得た漂流体験をきっかけに、と書いた。それは忘れもしない昭和62年(1987)8月16日、九州の壱岐水道でのできごとである。対馬東海岸を単独で漕破して気を良くした私はフェリーで壱岐に渡り、郷ノ浦港から南海岸を石田港に向かった。途中、突然の高波に転覆して漂流したのである。この日は各家にお迎えした先祖の霊を送る日で一斉休漁だった。9時間後に潮が変わって運よく海岸に打ち上げられたが悪友からは「未だ日本記録破られず」といわれる。真夏とはいえ体温が奪われて本当に危なかった。まさに余談であるが、なんでこんな本を紹介するのかということにまつわるものとお許しいただきたい。