書斎の漂着本 (53) 蚤野久蔵 海の壁
吉村昭の『海の壁』は昭和45年(1970)に224冊目の中公新書として出版された。明治と昭和の2回を合わせて三陸海岸を襲った3度もの大津波の被害を受けた各地を歩き、生存者の記憶を徹底取材して書いた作品で、津波を接近してくる壁になぞらえて題名とした。
出版されたのは、ちょうど大阪万博が開催されていた時期に当たる。社会人一年目を大阪の新聞社の記者として迎えた私は、研修として何日かは会場に出かけた記憶があるがすぐに京都支局へ配属になったので「万博体験」といえば、行き帰りの観光バスなどが名神高速道路で起こす交通事故の取材に毎回のように駆り出されたくらいだ。この本を手に入れたのは書評で「徹底取材した労作」とあったのに惹かれたからだ。事件や事故などに追われ、ただ忙しく過ぎゆくだけの日々のなかで、あるテーマに打ち込んで一冊にする執念にあこがれたのかもしれない。
吉村が三陸海岸を訪れたのは昭和34年と37年に2度ずつ芥川賞の候補になって落選した時に岩手県下閉伊郡田野畑村出身の友人から「私の村は小説にならないか」といわれたのがきっかけだったという。遠まわしに休養や気分転換の目的で誘われたのだが定宿にしていた旅館の女主人からは津波が来襲する直前、海水が沖に急激にひいて、海底が広々と露出した。海底には海藻が広がっているのだろうと思っていたところ、茶色い岩だらけであった。ある婦人の体験談には、津波に追われながらふと振り向いたとき二階の屋根の上にそそり立った波が<のっと>突き出ていたという話があった。深夜なので波は黒々としていたが、その頂は歯列をむき出したような水しぶきで白く見えた。そうした体験談を集めるうち、作品にして残せないかと考えるようになったという。
おさらいしておくと明治29年(1896)の津波は、6月15日午後7時32分、三陸沿岸から約200キロの海底でマグニチュード8.2から8.5の巨大地震が発生したことで同日夜から翌日の正午頃にかけて大小合計数十回の津波が繰り返し襲った。ちょうど陰暦の5月5日で、端午の節句にあたっていたのと前年に講和条約が結ばれた日清戦争から凱旋して来た将兵たちの祝賀会が開催された町村も多かった。夕方からは雨が強まっていたが、家々には灯がともり、酒宴がにぎやかに続いていた。宮古測候所では午後7時32分に最初の、同53分、8時2分にそれぞれ弱震を捉えたが、それから約20分後に闇の海上では異変が起きていた。海水は壮大な規模で乱れ海岸線から徐々にひきはじめ、その速度は急激に増していった。ある湾では1キロ以上もある港口まで海水がひいて干潟と化した。海水は沖合で異常にふくれあがると、満を持したように壮大な水の壁となって海岸方向に動き出した。沖合からはドーン、ドーンという砲声に似た轟音が聞こえ、間もなく黒々とした波の壁はさらにせり上がって、すさまじい轟きとともに一斉に崩れて村落に襲いかかった。宮城県下の被害は死者3,452名、流失家屋3,121戸、青森県下では死者343名に達したが、両県に比して岩手県下の被害はさらに甚だしく、死者は実に22,565名、負傷者6,779名、流失家屋6,156戸にも及んだ。
昭和8年(1933)の津波は3月3日午前2時32分14秒に中央気象台によって強烈な地震動が捉えられた。北は千島から北海道、東北地方、関東全域から中部、近畿地方にかけて人体に知覚できるほどの大規模地震で、震源地は明治地震と同じ岩手県釜石町東方約200キロの海底で、三陸沿岸の宮古、石巻と仙台の各測候所の地震計は強震を記録した。被害はまたも岩手県が最大で、宮城県、青森県がそれに次いだ。三県の被害は死者2,995名、負傷者4,091名、流失家屋4,885戸に上った。昭和35年(1958)のチリ地震津波は5月24日午前4時30分頃から上げ潮に伴ってやってきた。3日前に地球の裏側で起きた大地震によるもので岩手県下だけでも死者61名、流失家屋472戸にも及んだ。
吉村はこの三つの地震を憑かれたように調査した。岩手県庁のある盛岡市の県立図書館の県庁関係の資料や当時の新聞などを丹念に探し、専門家の調査研究書にも眼を通した。現地は当時いずれも<陸の孤島>といわれていただけあって上野発の夜行列車で早朝に盛岡に着き、山田線などを何回か乗り換えて最後は2日がかりでローカルバスに揺られて2泊3日もかかった。そのなかでは昭和8年の津波の体験者は多くいたが、さすがに明治29年の体験者はなかなか見つからずようやく田野畑村で85歳と87歳の老人を見つけ出し、地震の直前に定置網にマグロが入りきれないほど取れたことや、津波が湾奥の50メートルの高さにあった民家に流れ込んだという貴重な証言を引き出した。
昭和8年の津波は生存者も多かったから証言もさらに詳しい。実際の罹災状況の聞き取りでどうやって避難したのかを事細かにまとめ、津波に伴う怪火や砲撃音、数日前から井戸水が枯れてしまうなど多くの前兆現象を集めている。チリ地震津波は体感=地震がなかっただけにハワイでの津波被害が軽視され、漁師さんが言うように音もなく「のっこ、のっこ」とやってきた。そのあとも吉村は何度も三陸海岸を訪ね防波堤など防災への取り組みを取材するなど関心を持ち続けた。なかでも明治と昭和の2度の津波で計2,770名もの死者を出した岩手県の田老町では海面からの高さ10.65メートル、総延長1,345メートルもの大防潮堤の上に立っている。広い避難道路も完成し、避難所、防潮林、警報設備なども完備してチリ地震津波では被害はなかった。他の市町村でもそれぞれ防災対策が立てられているが、吉村は「しかし、自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる」として田老町の防潮堤に言及している。「明治、昭和の大津波は10メートル以上の波高を記録した場所が多い。そのような大津波が押し寄せれば、海水は高さ10メートルほどの防潮堤を越すことは間違いない」と警鐘を鳴らしている。
昭和59年の文庫化(中公文庫)にあたっては「少し気取りすぎていると反省して」表題を『三陸海岸大津波』にした。平成16年の文春文庫版の「ふたたび文庫化にあたって」では三陸海岸にある羅賀(らが)という地に建つホテルで津波についての講演をした話を紹介している。「明治29年6月15日夜の津波では、ここに50メートルの津波が押し寄せたのですと話したら沿岸の市町村からやってきた人々の顔に驚きの色が濃くうかび、おびえた眼を海に向ける人もいた。耳を傾けている方々のほとんどが津波を体験していないことに気づいたのである。調査の旅をした頃、私はまだ十分に若く、元気で、一カ月近く町から村へとたどる旅はいっこうに苦にならなかった。今あらためて読み返してみると、その調査の目が四方八方にのびていて、自分で言うのはおかしいが、満足すべきものだったという思いがある。今も三陸海岸を旅すると、所々に見える防潮堤とともに、多くの死者の声がきこえるような気がする」と締めくくっている。
ところであの3.11東日本大震災から3年半以上が経った。発生直後から新聞はテレビでは連日のように惨状をこれでもかと伝え続け、そのうちに「映像を目にするのは辛すぎる」という声もあるとして<自主規制>とやらが働くようになった。そんななかでこの文春文庫版は出版時には地味な存在に過ぎなかったのが震災直後から増刷を重ねて一躍ベストセラーになった。吉村は自然災害である津波は繰り返しやってくると言い続けた。その死のちょうど4年半後に吉村の<予言>通り、東日本大震災が襲ったのである。そして田老町の大防潮堤もあっけなく破壊され、たしか181名が死亡・行方不明になった。
吉村が懸命に伝えようとした自然の猛威は人間の想像力をはるかに超えるという当たり前の警鐘があらためて伝わってくる。