池内 紀の旅みやげ(47) 絞りの里─愛知県有松
東海道五十三次はよく知られている。お江戸日本橋を発って京の五条まで五十三の宿場がつないでいた。江戸からいうと品川宿が一番で、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚……。歌川広重の版画シリーズはマッチ箱にも使われて、いつのまにやらなじんでいた。
これに対して五十三次に加え「間(あい)の宿」があったことは、ほとんど知られていない。その名からもわかるように、宿と宿の間の中間駅で、二つの宿のへだたりが大きすぎるところにつくられた。その一つが、三十九番池鯉鮒(ちりふ)(知立)と四十番鳴海(なるみ)の間に設置された有松宿である。五十三次が整えられて数年後の慶長十三年(一六〇八)に誕生した。旅行者の訴えを聞き、また幕府役人が歩いてみて、少々キツすぎると判断したのだろう。地鯉鮒は三河、鳴海は尾張である。現在の新幹線駅と同じで宿駅誘致の綱引きがあったようだが、尾張側に落ち着き、まず知多半島の阿久比(あくひ)という集落から八名が移ってきた。何もない原野を開いて、準宿駅の役目を果たす。
そのかぎりではワキ役だが、移住してきたなかに竹田庄九郎と言う知恵者がいた。地場産業として木綿の絞りを開発。斬新なニューモードがたちまち評判をよび、上り下りの旅人が必ず間の宿で足をとめていく.木綿が材料だから安価でかさばらず、軽くて丈夫で、手みやげにピッタリ。その上、絞り文様がシャレていて、浴衣、手拭、風呂敷、帯などに打ってつけ。上々の売れ行きをみて、尾張藩が庇護に乗りだした。他所での生産と卸を禁止。ほかならぬ尾張の殿さまが有松ブランドにお墨付きを与えたわけだ。
名鉄有松駅で降りて、ブラブラと南へ向かった。最初の信号のある四つ角に来て、左右を見渡したとたん、おもわず息を吞んだ。木造二階建て、日本の伝統的な美しい建物が、ゆっくりうねった道を埋めている。瓦屋根、白壁、連子格子のあいだに石積みの蔵が見える。そんな場合、町おこしの予算をつけ、映画のセットのように家並みを再現したケースが多いが、有松はあきらかにそうではない。ひと目で違いがわかる。コンピュータ仕様の設計図ではなく、長い歳月がこれをつくり上げた。
大屋根のはしにツンと突きでているのが「大棟(おおむね)」と呼ばれる商家のスタイルだろう。「虫籠(むしこ)窓」といって、二階の窓は漆喰(しっくい)で虫籠のような太い桟をつくったかたち。一階の側壁は白と黒とが格子縞になったナマコ壁。蔵には雄壮な鬼瓦がのっている。窓はぶ厚い二枚の土扉が観音開きになる。隣家との境をつくるのが卯建(うだつ)。サエない男を俗に「ウダツが上がらない」というが、有松の当主たちは、いずれも高々と卯達をあげた。
かつては絞り問屋が軒を並べていたが、さすがに職業替えがあって商店はいろいろながら、古い家は守ってきた。天明四年(一七八四)に大火があって、有松宿全焼。再建にあたり火に強いナマコ壁や土壁による家屋で統一したというから、二百年をこえる歳月にわたって伝統を守り、立て替えや建て増しにも、まず町並みの調和を考えた。年二回刊行の「有松町づくりの会」の会誌「有松」は七十一号を数える。この種の会ができたときは、ふつうはほぼ手遅れで、新建材と安普請の無惨な通りになりはてたのちに、乱杭歯のような数軒を保存するのが関の山だが、有松には先見性のある商人・市民がいたのだろう。所得倍増の高度成長のころ、ビル立て替えを言う人がいたにちがいないが、よその轍を踏まなかった。今となっては旧来の町並みがたのもしい遺産となり、強力な宣伝役もやってくれる。
「江戸情緒ただよう町並みを散策する」
「絞りのいろはを見学する」
「有松東海道青空市」
「有松絞りまつり」
「晩秋の有松を楽しむ会」
お隣りの旧宿駅は雑然として殺風景な郊外町にすぎないなかで、かつての補欠が華やかに現代に生きている。
「ダーシェンカ──自然酵母一〇〇% 石窯パン オーガニック素材で安心安全」
商家をあざやかに改造したカフェ。チャペックの小説の主人公に借りた名づけが粋ではないか。
「蔵コンサート」
重厚な蔵からモーツアルトのフルートが流れてくる。
「田舎なつかしの唄をあなたに」
カラオケでがなるのではなく、アコーディオンの伴奏というところが優雅である。
石窯パンをパクつき、香りのいいコーヒーをいただいて、なおも通りをブラついていると、軒にのったガラスと青銅の角灯が目にとまった。「アンドン看板」といって、夜になるとポッと淡い明かりがつき、屋号を映し出す。闇に一点の絞りを染めつけた具合である。
【今回のアクセス:JR名古屋駅で名鉄に乗り換え。有松駅下車後すぐ】