池内 紀の旅みやげ(48) 謎ずくめ─兵庫県・石の宝殿
山陽新幹線が新神戸駅を出て、明石を過ぎ、姫路に近づいてくると、右手に石切り場が見えてくる。小山全体が石でできているらしく、大きく切り開いた切断面が淡い肌色の垂直の壁をつくっている。みるみる近づき、よく見ようとする間もあらず、背後に去って視野から消えていく。
山陽本線の場合は線路がずっと北寄りで石切り場に近く、もっとよく見えるはずだが、高架でないのであまり見えない。建物のあいだにチラッとのぞく程度で、石切り場と向き合って神社があるらしく、千木をのせた銅屋根が青さびをふいている。宝殿(ほうでん)が下車駅で、住宅地を抜けて、ゆるやかな坂道をのぼっていくと、石垣を築いた上に拝殿がのっている。
「日本三奇 史蹟 播磨国乃寶殿 生石神社 旧社格 懸社」
旧字の看板が何やらものものしい。斜面につくられているので、拝殿からまた石段を上がったところに本殿がある。そこまではよくある神社のスタイルだが、ふつう神鏡などの置かれている奥がまるきりちがう。正方形の巨大な岩が鎮座しているのだ。自然の大岩ではない。あきらかに人の手が四角形にととのえた。三方が岩壁で、石室として切り開けたと思われる。下は水路になっていて一見のところ、水の中に巨石が浮いているように見える。
生石(おしこし)神社といって、略記によると「人皇十代崇神天皇の御代日本全土に悪疫が流行して人民死滅の境」にあったとき、オオアナムチとスクナヒコナの二神が天皇の夢枕にあらわれた。お告げに従い、ここに生石神社を祀ったところ、たちまち悪疫が終息したという。
巨石については別の言い伝えがあって、右の二神が国土鎮めのため石の宮殿を造営していたとき、アガノカミらが反乱を起こしたので、二神は工事を中止
して山を下り、賊神を鎮圧した。宮殿は未完成のまま残され、「石の宝殿、鎮(しずめ)の石室(いしむろ)」の名をもつにいたった。──
要するに、いつのころ、誰が造ったともしれない。石室は「浮石」ともいわれ、水中に浮く様式をとっており、三間半(約七メートル)四方で、高さ二丈六尺(約六メートル)、水脈の上につくられていて、その水はいかなる旱魃にも涸れることがなく、万病に効く、霊水とされてきた。
不思議ずくめ、謎ずくめなのだ。万葉集巻三に「志都のいわや」「石のみやゐ」などの名でうたわれており、当時すでに広く知られていたことがわかる。八世紀以前に水脈を探索して、その上に巨岩を正方形に切り開ける技術をもった石工集団がいたわけだ。石には平たい溝(みぞ)のようなものが三方についていて、何かの用を果たしたものと思われるが、はたしてどのような理由によったのか、いっさいわからない。
奈良の明日香村に「鬼の俎(まないた)」「鬼の厠(かわや)」とよばれる石造物があって、やはり、いつのころ、どのような目的で造られたのかわからない。古墳時代の終りごろに石の文化があり、西日本各地で、さまざまな用途をおびて石の造営がされたらしいのだが、大半が壊され、散佚し、上に埋もれた。松本清張が古代推理に石の宝殿もとりあげたが、文書のなさにねを上げた。奈良の石造物に彫りつけてある溝に注目して、酒造りの舞台を考えてみたりしたが、石の宝殿の巨石の溝には立ち往生するしかないのだった。神祇の儀式にでもあてたものか。しめ縄の張りめぐらされた岩は、一個の巨大な謎というしかないのである。
私は姫路の生まれであって、高校まで播磨で過ごした。生石神社は「学問の神」を兼ねており、小学生のころには何度か遠足で行った。
「ベンキョーができますように」
みんなで御参りしたあとは自由時間で、裏手の高台を走りまわった。石切り場は危険なので近寄るなといわれていたが、こっそり入りこんで、花崗岩の小片を宝物のようにひろってきた。昔から採掘されていて、時代ごとに採掘場を移すので、古いところは暗灰色をした石の壁が大きな柱状に並んでいた。
大人になってドイツ語にもホーデン(Hoden)のあることを知った。辞書には「精巣」「睾丸」の訳語がついている。俗にいう金玉である。旧国鉄のころ、宝殿駅が時間調整の駅だったらしく、列車が入ると駅のアナウンスがあった。
「ホーデン、ホーデン、十分間停車」
作家尾崎士郎に「ホーデン侍従」という小説があって、文中に「ペニス笠持ち/ほーでんつれて/入るぞヴァギナの/ふるさとへ」とうたわれている。正確にいうとヴァギナに入れるのはペニスのみであって、ホーデンは入口まで行きついても中に入れてもらえず、いつも門番のように控えている。それはそれとしてわが石の宝殿には、すぐにしなだれるペニスなど歯牙にもかけず、ホーデンさまがいつも悠然とそりかえっているのである。
【今回のアクセス‥文中にあるとおり、JR山陽本線宝殿下車。駅名と並んで写真をとると、ご利益があるかもしれない】