書斎の漂着本(65)蚤野久蔵 頭にいっぱい太陽を
この連載もようやく後半に差しかかったので少し<毛色>の変わったのを紹介したい。といっても書庫を整理していて偶然見つけたのだから「あることさえ忘れていた」というのが正直なところではある。イヴ・モンタンの『頭にいっぱい太陽を―シャンソン歌手の回想記』。1956(昭和31年)、大日本雄弁会講談社から「ミリオン・ブックス」の53冊目として出版された。イヴ・モンタンと聞いただけで「枯葉」や「セ・シ・ボン」の旋律が浮かぶ。<通>の方なら、紹介した裏表紙も代表曲の原題そのままと気付かれるはずだ。
日本語版に寄せた序文には「マルセイユで幼い頃を過ごし、あらゆる種類の労働者と出会ったことによって、わたしは彼らから学んだ勇気と上機嫌と友愛の教えが忘れがたい。太陽は希望と友情のしるし、同じ太陽がシャンソンや詩篇が等しく愛されるようにしっかりと、すべての人々を一つに結びつけることを願う」とある。
この本が出版された年、私はまだ小学生で、引き継いだ父の蔵書にもなかったから、さてどこで手に入れたのだろうと考えてようやく思い出した。学生時代のいっときフランス文化研究会(仏研)に入っていた。なぜ入ったかというと第二外国語にフランス語を選んだこともあったが、授業以外は学校に居場所がなく、クラス仲間から「カワイイ子が多いみたいだよ!」と誘われたのが決め手になった。ところが例会や合宿などで好んで討論されたのがサルトル、ボーヴォワール、ランボー、カミュ、パリコミューン・・・、音楽はもっぱらシャンソンで、フランス映画の新作が予告編からいち早く話題に上った。何人かはフランス旅行の経験者もいて女子の連中に人気があったのは『星の王子さま』のサン=テグジュペリだったか。仏文学やフランス文化などそれまではほとんど縁がなかったので、カミュではないがまさに<異邦人>だった。レコードも買えず(そもそもプレイヤーがなかった)、シャンソン喫茶に通うことなどできない貧乏学生は、せめて予備知識くらいにはなるだろうとこの本を古書店で見つけて購入したのだった。
イヴ・モンタンは1921年10月13日、イタリアの首都ローマの北方に延びるアペニン山脈沿いのモンスマノ・アルト村の貧しい農民の次男として生まれた。本名はイーヴォ・リーヴィ、6歳の姉と4歳の兄がいた。当時のイタリアはムッソリーニのファシスト政権が台頭するなか、それになびかない村人は徹底的に迫害され、社会主義を信奉していた父親はファシストたちの集団からリンチを受け痛めつけられた。とうとう彼らは夜陰に乗じて母屋と仕事場になっていたイーヴォ家の小さな納屋に火をつけ全焼させた。それでも父親は考えを変えることはなかったが事件の背後に集団のリーダー格にのし上がった妻の兄がいたことで、生まれた国に絶望するとまず一人だけでフランスに密出国する。父親はどうにかたどり着いた港町マルセイユで必死に働いて送金を続け、ようやく1923年に残る家族も無事出国することができた。生家を焼いた火事のことや故郷の風景さえも記憶にはなくどうやってマルセイユにやって来たのかも覚えていなかったが、そこで2歳の目に映ったのは地中海の海と明るい太陽だった。
やがて父親はほうきを作る小さな仕事場を建てて3人の労働者を雇ったがわずか一年後に破産、3万2千フランもの借財が残った。当時の職人にとってはひと財産以上の金額だった。この苦境を救ったのは姉で、近所の奥さん相手に間口3メートル、奥行き6メートルの元ガレージを改造して開業した美容院が朝早くから夜遅くまで、しかも日曜日にも仕事をする熱心さが評判になり繁盛した。家族からイヴォという愛称で呼ばれていたモンタンも店の下働きをして助けたが、店に導入された最新のパーマネント装置の<試験台>にされ、あやうく感電するところだった。
姉の店で数年働いたあと、姉の勧めで大きな店に転じ、仕事帰りに立ち寄る酒場で働く娘に恋をしたが自分の容貌に自信が持てず結局、成就しなかった。さらにいくつかの美容院を替わり、休日には映画や数フランでシャンソン歌手、シャルル・トレネのレコードが楽しめる音楽ホールに通った。映画は、シルクハットにタキシードを着て、きらめく滑走路の真ん中で杖を使った軽業やタップダンスを上手に踊るアメリカ人俳優のフレッド・アステアにあこがれた。「俺は俳優になろう。映画に出るんだ」と思い詰めたものの夢のまた夢、銀幕の向こうへの手蔓さえなかった。ところが親しくなった田舎興行主に会うたびに夢を語っていたら、彼のはからいで舞台に立てることになった。ポスターに載せる名前が要るというのでとっさに「イヴ・モンタン」を口にした。子どものころ、夕食を用意した母親が階段を上って戻ってくるように命じて窓から<イタリー風に>呼んだ「イヴォ、モンタ!(=お上がり)」から思いついた。母の声がこだまのように、ごく自然に口に上った。「イヴ・モンタンか、そりゃいい!」と興行主に気に入られて即採用された。
舞台は野天ではなくてホールだった。マルセイユの場末、サン=タントワーヌにあるヴァロン・デ・チューヴの舞台。衣装は色々考えて明るい三つ揃えに、白のワイシャツ、青いネクタイに青と白の靴、つまり手入れしただけの「平服」だった。出演までの何日か考えた末に選んだ曲目はシャルル・トレネの「過ぎゆく人生」のあとドナルド・ダックの真似で観客を笑わせ、モーリス・シュヴァリエの「ありのままの人生」、最後はトレネの「ブーム」で締めることにした。初めての舞台、聴衆も名前さえ聞いたことのない歌手、いや18歳の少年がまるで<法廷>としての舞台に立つ。人々から賛成か反対かをはかられ、よろしいか、さもなければ取るに足らない奴かの審判が下される。歌手として裁かれるのだ。聴衆は<歌手としてのわたし>を裁き、わたしを受け入れるか、斥けるかしに来ていた。先に出たシャンソン歌手にはすぐにブラヴォの叫びが起きた。
順番が来ると、わたしは断乎として突き進んだ。まさに急行列車の車輪の下に飛び込むみたいだった。しかしその急行列車の車輪は、まるで悪夢の中でのように、野獣のごとく襲いかかり、ものすごい音をたててはしり出てきて、決してこちらには届かず、ついには非常に優しく、情愛のこもった雲となった。わたしの裁判官たち=聴衆=の顔は暗い霧の中に泳いでいるかのように見えた。結果、会場からはその夜いちばんの拍手喝采を受けた。初めて出演料50フランを手にした。その後、この興行主のもとで<アメリカ・スター>というふれ込みのリズミカルなレビュー『狂気の夕』をかかげて南フランスの都市を巡った。ポスターは「イヴ・モンタン、舞台のダイナマイト」。行く先々では花形として迎えられたが所詮はローカルスターに過ぎなかった。
パリへ向ったのは第二次世界大戦末期の1944年2月。いくつかのホールに出演したあと、ムーランルージュの舞台に立つことになった。ここでも同じく<アメリカ・スター>のままだったが、4曲を歌い終わって舞台袖に下がると<群衆を移動させる>とまで評された人気歌手エディット・ピアフが「あなたはすばらしい。同じところで一緒にやれるなんて!」と感動した口ぶりで話しかけた。イヴ・モンタンをシャンソン歌手として見出し、成功させたピアフとの出会いだった。
映画俳優としては酷評だったことで不幸な経験となった『夜の門』や、多くの批評家を引きつけ、最も優れたフランスの俳優の一人にのし上がることになった『恐怖の報酬』などの裏話も語られる。最初の妻となった女優シモーヌ・シニョレとの出会いは映画を地で行くようだ。
最終章をこう結ぶ。
今日、わたしは青い肘掛椅子にかけている。背後ではセーヌ河が流れている。わたしは、まるで泥砂中の金鉱みたいに言葉を集めている。点画のように漠としているが、新しいシャンソンの糸がわたしの頭を往来している。ある日、それは飛び立つだろう。そして遠くに火花を飛び散らせ、17歳のいたずらっ子(=幼い日の自分のような若者)を目覚めさせ、彼を舞台によじ登らせるならばそれは一つの「聖なる太陽」を作ることになるだろう。34歳になるわたしは生涯の一片を、地球のように容赦なく廻る機械=テープレコーダー=に語り終えたところである。
久しぶりに読み返して彼の前半生だけでなくそのファミリーヒストリーに引きこまれてしまったが私自身の後日談を書き加えておく。
この本からの<にわか仕込み知識>を披露するはずだった活動拠点の部室が学園紛争のあおりで大学側にロックアウト(閉鎖)されたこともあって研究会も休部となり、そのまま<退部扱い>となった。この本もその存在さえ忘れてしまった。革ジャンを着たモンタンが街中で繰り返し歌う映画『失われた想い出』の同名シャンソンのように・・・。