書斎の漂着本(66)蚤野久蔵 官版 輿地誌略
明治7年(1874)7月に出された内田正雄の『官版 輿地誌略(かんぱん・よちしりゃく)』である。新書判と同じ縦17センチだが横は11.8センチとわずかに広い。官版とはいまの官報と同じく官=国による印刷物を指す。輿(=こし)は人を乗せて担ぐところから輿地は万物、つまり地球という大地を担ぐ、ひらたくいえば世界地誌の略(=あらまし)という意味である。のっけからややこしい説明をしたが、左が「亜細亜洲 一」、右が「亜細亜洲 二」で、数年前に行きつけの古書店の雑書箱で見つけた。全12巻からすれば汚れもひどく<端本扱い>として格安で譲ってもらった。
大政奉還によって誕生した明治新政府は、明治2年に諸藩主の版籍奉還。同4年には廃藩置県の断行と新貨条例制定。同5年には学制を敷き、太陽暦を採用。同6年には徴兵令の布告と地租改正と矢継ぎ早に新政策を進めた。地理の啓蒙書としての性格を持つ『輿地誌略』の見開きに「文部省印行」の朱印のある文部省が置かれたのは明治4年7月で、同じ月に出版された中村正直の『西国立志編』と翌5年の福沢諭吉の『学問ノスゝメ』とともに当時のベストセラーになったことから「明治三書」といわれる。
著者の内田は幕末の天保9年(1838)に三百石の幕臣・万年三郎兵衛の次男として江戸に生まれた。名は恒次郎、幼いころから学問、剣術に優れ神童と呼ばれた。安政4年(1857)幕府から長崎海軍伝習所の第三期生に抜擢されて航海術、測量法を学び、オランダ人教師から語学、世界地理、数学などを教わった。万延元年(1860)には千五百石の旗本内田家の養子となり、築地軍艦操船所の教授を経て幕府がオランダに発注した軍艦の操船法などを習得する留学生の代表としてオランダに渡った。現地ではイギリスやフランスに出張、パリ万博の幕府側出品交渉役も務めた。慶応2年(1866)に完成した軍艦が「開陽丸」で、大西洋から喜望峰を回り、インド洋から当時はオランダ領だったインドネシアのアンボンを経て横浜まで5カ月がかりで無事回航した。維新後は内田正雄と改名、新政府に招かれると東京大学の前身となった洋学校の大学南校に勤めた。
ここまでは実はこの本を取り上げるにあたっての<あと知識>である。専門研究者でもないのに手に入れることにしたのは巻末余白にある本の「来歴」とも思える毛筆書きに興味をもったからである。
縣令(以下県令)は新政府が廃藩置県に伴いその長官につけた名称で、明治19年に現在と同じ知事と改められた。長崎の旧・肥前平戸藩士だった籠手田安定(こてだ・やすさだ)は戦国武将の血をひく剣術家で、明治11年から17年まで第二代の滋賀県令をつとめた。拝受者は守山小学校高等科生の宇野紋二郎で、籠手田安定君下賜とあるから県庁の職員が代筆したものだ。先に紹介した明治5年の学制では「邑(=村)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」という有名なくだりが象徴するように義務就学を目ざして地元出資による小学校が各地に作られた。『守山市史』によると翌6年2月に旧野洲郡守山村に滋賀県第16学校が設立され、同10年に近隣の2校を統合して守山小学校となった。尋常科4年、高等科4年だったことやこの『官版 輿地誌略』が高等科の教科書として使われたことから、時期は不明ながら籠手田県令時代に下賜されたと思われる。
『輿地誌略』の内容を紹介すると「亜細亜洲 一」では地誌総説の天文部が地球の形状及び自転の説、経度緯度及び時刻の差、恒星、太陽界の概略、「地球も又遊星たること」と現在と用語は違うが天文知識から始まり、地球の大きさ、五大州の広さ、海洋の面積と深度というように解説が続く。世界の高山では日本の冨士(富士山)、ヒマラヤのイフレスト(エベレスト)、クンチンエンガ(カンチェンジュンガ)、ダワラギリー(ダウラギリ)、サンジバル(アフリカ・ザンジバル)のキリマンジマロ(キリマンジャロ)が絵で紹介され、左上あたりに「軽気球」や「鳥コンドル」という挿絵がある。いずれも冨士よりはるかに高いところに描かれているのがほほえましい。
「世界大河表」ではご覧のようにそれぞれの形状が紹介されている。右からライン、ガンジスに次いで「多悩」は何だろうとよく見ればドノウと仮名がありドナウ河。漢字だけでは<悩んで>しまいそうだ。
「亜細亜洲 一」の最後がようやく日本である。まず畿内八道一藩(=琉球)に分け、面積、人口などをそれぞれ説明して「東京府、武蔵五郡」「神奈川、武蔵四郡、相模三郡」、籠手田の出身の長崎を例に引けば「長崎、肥前三郡、壱岐対馬二国」というふうに紹介する。「大日本全図」は他図とは違う変形で、本州、九州、四国の部分の右上に北海道と柯太(樺太)の地図が貼り付けてある。解説には「日本ハ太平洋ノ西北隅ニ位スル島国ニテ本島及ビ四国九州北海道ノ四大島ヲ主トシ許多(その他)ノ小島有リテ之ニ付属ス其四隅ハ海峡ヲ隔テ朝鮮ニ対シハ千島ニ跨リ北ハ樺太ニ連リテ魯西亜(ロシア)ト境ヲ接ス」とある。この地図には沖縄を中心とする琉球国に連なる南西諸島は含まれていないから明治初期の日本国の領土認識を伺うことができるが廃藩置県による混乱がまだ尾を引いて校正に手間取ったらしく、活字の並びに乱れが多い。「亜細亜洲 二」は中国大陸からシベリア、インドまで広く取り上げているが、169ページの「一」に比べてページ数は三分の二の116ページしかない。
ところでこの本を手に入れるきっかけになった本の「拝受者」で、当時の守山小学校高等科生の宇野紋二郎とはどんな人物かを調べてみることにした。滋賀、守山、宇野で思い当たったのは第75代の宇野宗佑元総理(1922-1998)。同じ宇野姓だからひょっとしたら親戚ではないかと。両方の本に「宇野紋治郎」という蔵書印が押されているので「紋二郎」ではなく「紋治郎」かもしれないとも考えた。宇野元総理はこの連載の第30回にシベリア抑留記『ダモイ・トウキョウ』を取り上げたことがある。大正生まれ(11年)だから父か祖父の世代とあたりをつけた。すると通商産業大臣時代の昭和59年に出版した『中仙道守山宿』(青蛙房)に出てきた。明治11年10月12日、北陸東海巡行から京都に戻る明治天皇が守山宿を通過された情景を描いた「秋晴れ」の一節である。
「私の祖父正蔵は明治六年生まれの人だから、その頃は六歳だった筈だ。兄の紋治郎らと共に父栄忠(えいちゅう)のかたわらか、母ミチの膝の上で、燦たる秋日の中をしずしずとお進みになる天皇の鳳輦(ほうれん)をわが家の前で、お迎えしたことであろう」
何と県庁側が書いた「紋二郎」は間違いで正しくは「紋治郎」だった!書き間違いはないだろうから県庁へ提出された名簿の不備だったのではあるまいか。学校側にしてもせめて配布前に気付かなかったのか。せっかくの「下賜」だったのに本人はがっかりしたことだろう。その証拠に長じて自分の蔵書印を持つようになると「宇野蔵書」印のすぐ上に、ある意味<誇らしく>「宇野紋治郎」印が押してある。いずれにしてもこの2冊を終生大事にしていたのは間違いない。何回も広げたのか折目が乱れ、大きな破れがある「大日本全図」には和紙の裏打ち補修が残る。明治という激動の時代に少年時代を送った紋治郎少年は、大人たちの話題に上る国内他府県の位置をこの地図で確かめていたのかもしれない。