書斎の漂着本(68)蚤野久蔵 鍵
昭和31年12月に中央公論社から出版された谷崎潤一郎『鍵』の単行本で定価は350円である。「装釘・板畫 棟方志功」とあるだけに函、表紙、見返し、中表紙すべてが凝りに凝った棟方独特の世界で函と本体には手触りを生かす和紙調の用紙が使われている。
中表紙のデザインは最初に刷った墨色の女体に、赤い彩色が重ねてあるから、開いた途端にちょっとドッキリさせられる。棟方は戦時疎開で富山県福光町(現・南砺市)に移住、昭和29年まで住んだが親交のあった谷崎に自宅を「愛染苑(あいぜんえん)」と命名してもらった。この本が出版された年、棟方はイタリアのヴェネツィア・ビエンナーレで日本人初となる版画部門の国際大賞を受賞するなど精力的な活動を続け、古希を迎えた谷崎も「中央公論」に連載した『鍵』を直後に出版して大いに気を吐いた。
同じ年、私自身はまだ近所に本屋もない田舎の小学生だった。本好きだった父も公職追放で仕方なく勤めていた材木会社が解散になり、ようやく県庁の平職員として勤め始めたところでこの本を求める余裕はなかった(と思う)。というのも後年、すべての蔵書を遺贈された中にもなかったからだ。では、いつからわが書斎にあるのか。かなりの<汚れ具合>からしてやはり古書店の均一棚かどこかの古書市で見つけたのではなかろうか。つまり、「こんなところに、もったいない!」の一冊だったろう。「アブナイ愛の魔術師」ともいわれる谷崎の作品は、この『鍵』もだが『痴人の愛』、『卍』、『瘋癲(ふうてん)老人日記』などはすべて文庫か全集で読んだし、こうした特装の単行本マニアでもないからである。
『鍵』はご存知、老齢を迎えた好色な大学教授の夫と、貞淑さを装いながらもやがて愛欲に溺れていく妻の話である。物語は夫が書くカタカナの日記から始まる。
一月一日。・・・・・僕ハ今年カラ、今日マデ日記ニ記スコトヲ躊躇シテヰタヤウナ事柄ヲモ敢テ書キ留メル¬(コト)ニシタ。僕ハ自分ノ性生活ニ関スル¬、自分ト妻トノ関係ニツイテハ、アマリ詳細ナ¬ハ書カナイヤウニシテ来タ。ソレハ妻ガ此ノ日記帳ヲ秘カニ読ンデ腹ヲ立テハシナイカト云フ¬ヲ恐レテヰタカラデアツタガ、今年カラハソレヲ恐レヌ¬ニシタ。妻ハ此ノ日記帳ガ書斎ノ何処ノ抽出ニ這入ツテヰルカヲ知ツテヰルニ違ヒナイ。
【日記で使われる¬(コト)は縦棒がもう少し長いが、¬で<代用>させていただく】
・・・・・僕ハ今年五十六歳、古風ナ京都ノ旧家ニ生レ封建的ナ空気ノ中ニ育ツタ彼女ハ四十五二ナツタ筈ダ・・・・・
ということで主人公と妻の郁子は11歳違いの夫婦であることが説明される。
・・・・彼女ニハ彼女自身全ク気ガ付イテヰナイトコロノ或ル独特ナ長所ガアル・・・・・彼女ダケニ備ハツテヰルアノ長所ヲ長所ト知ラズニヰルデモアラウガ・・・・・
彼女の「アノ長所」というのは、つまり<名器>であるということ。夫はまだそんなに衰える歳でもないのだが疲れやすくなっている。「妻のほうは腺病質で、しかも心臓が弱いにもかかわらず<アノ方>が病的に強い」と思っているのに、妻があまりにも「事務的」で「ありきたり」な「第一公式」でしか相手にしてくれないことに不満を持っている。
実は妻も日記を書いている。こちらは平仮名である。
一月四日。・・・・・今日は珍しい事件に出遇った。三カ日の間、書斎の掃除をしなかったので、今日の午後、夫が散歩に出かけた留守に掃除をしに這入ったら、あの水仙の活けてある一輪挿しの載っている書棚の前に鍵が落ちていた。それは全く何でもないことなのかも知れない。でも夫が何の理由もなしに、ただ不用意にあの鍵をあんな風に落としておいたとは考えられない。夫は実に用心深い人なのだから。そして長年の間毎日日記をつけていながら、嘗て一度もあの鍵を落したことなんかなかったのだから・・・・・
「読みたければ内証で読め、ここに鍵がある」と云っているのか「お前が内証で読むことを僕も今日から内証で認める、認めて認めないふりをしていてやる」と云うのだろうか?・・・・・
日記の隠し場所の「鍵」を巡る夫と妻の思惑、ここから題名が取られている。
妻のほうは遠い昔の新婚旅行の晩のことを思い出す。「寝床に這入って、彼が顔から近眼の眼鏡を外したのを見ると途端にゾウッと身慄(みぶる)いがした。始終眼鏡をかけていた人が外すと、誰でもちょっと妙な顔になるものだが、夫の顔は急に白ッちゃけた、死人のように見えた。夫はその顔を近々傍に寄せて、穴の開くほど私の顔を覗き込んだものだった。私も自然彼の顔をマジマジと見据える結果になったが、その肌理(きめ)の細かい、アルミニュームのようにツルツルした皮膚を見ると、私はもう一度ゾウッとした・・・」。
「ゾウッとした」が繰り返して使われ、眼鏡も妻の夫に対する心を象徴する小道具となる。
登場するのはもう二人。娘の梅子と大学の同僚の木村である。主人公は若い者同士をくっつけようとするが、梅子にはまったくその気がないので、木村と妻を近付けることで嫉妬心から自身の欲望を刺激しようとする。俳優ジェームス・スチュアート似の木村はマッチョな好男子で映画好き、お気に入りの映画スターも同じくジェームス・スチュアートである。夫の日記には「ソシテ僕ノ妻ハジェームス・スチュアートガ好キデアル¬ヲ僕ハ知ツテイル。(妻ハソレヲ口ニ出シタ¬ハナイガ、ジェームス・スチュアートノ映画ダト欠カサズ見ニ行クラシイノデアル)」と書かれ、人間関係やそれぞれの好み、性向が次第に明らかにされていく。
棟方はこの木村をなかなかのイケメンに表現している。
妻の郁子のほうはどれも棟方好みの豊満な表情である。
貞淑さと奔放さあるいは複雑な心情を表すようにこういうのもある。
あるいは
・・・・・誤ツテ眼鏡ヲ彼女ノ腹ノ上ニ落シタ。彼女ハソノ時ハ明ラカニハツトシテ・・・・・
と夫の日記に書かれるシーンには眼鏡が描かれる。
この先の<意外な展開>について、これ以上は書かないが谷崎作品と棟方「板畫」との見事なコラボレーションである。
『鍵』出版の翌昭和32年7月には谷崎の短歌と棟方の板畫を<合作>した『歌々板畫巻』が宝文館から出版されている。この中に「歌々板畫巻をめぐって」という対談がある。
司会から「版画の挿絵の本というのは、割合すくないですね」と水を向けられると
谷崎:そうね。すくないですよ。あなた(棟方)の「鍵」は広告にまで使ってね。
棟方:いやもう一生懸命で・・・頼まれてよかった、わたくしは!一生懸命ああいうことができて・・・。
谷崎:恐縮しちゃって。
棟方:いや、恐縮なことどころではないです。こっちには仕事でね。
谷崎:あれは全部で何枚になるのですか。
棟方:五十九枚。あとに一枚つきました。
谷崎:そう、あとにつきましたね。あなたも世界的になって来ましたな。
棟方:よわったな。これはどうも、先生からそんなことをいわれちゃ・・・(笑)。
互いに敬愛し合う、二人の天才の率直でなごやかな雰囲気が伝わってくる。
谷崎はいつも手紙に谷崎先醒=先生と書く棟方を「奇人である」と評しながらも愛した。晩年は目を患い、医師からこれ以上の酷使は危険といわれながらも禁を犯して日々製作に格闘する棟方に
「眼病の棟方志功眼を剥きて猛然と彫るよ森羅万象」
という歌を贈ったこともある。それだけに日頃から棟方には自重と健康を祈りながらも、自分の作品を本当に生かすことができるのは棟方しかいないと『鍵』の仕事を依頼した。
棟方作品の特徴である太く健康な線でそれぞれの場面を形象化し、それが私自身もそうかもしれないが、読者の抱きがちな<卑俗な覗き趣味>から一線を画した効果があったのではないだろうかとあらためて思う。