書斎の漂着本(72)蚤野久蔵 ぼくは豆玩
豆玩は「おまけ」と読む。江崎グリコの「オマケ係」として生涯に約3千点もの豆玩を考案した宮本順三の『ぼくは豆玩』(インテル社)である。
拙者は生まれながらグリコのオマケ係である。拙者にはもっと歴とした難しい役名があるけれど、みんな何時までもオマケ係と呼ぶ―というユーモラスな書き出しで始まるプロローグに、工場見学にやってきたデパートの女店員さんが「オマケや賞品を考える人ってどんな方ですか」という質問をした。すかさず工場長が「大きな子供です。子供のままに大きくなった人が、この会社で考えているんですよ」と答えたというエピソードとともに「あいにく拙者がいなかったことは半ば心安く思え、半ば残念なようにも思えるが拙者はやはり子供じゃない」と紹介されるのがこのカットである。
拙者、宮本は大正4年(1915)大阪生まれ。駄菓子屋のおもちゃやヤンマ(トンボ)、いなご捕りで遊んだ世代である。もっとも
いなご捕りに行くと言うと、母は木綿糸に針をつけたものを何本も用意してくれた。捕ったいなごの腹から背中に突き刺して、数珠つなぎにするためである。獲物は母がつけ焼きにして、おやつにしてくれたが、蛋白源のある好物であった。
と書く。電信に使った穴のあいたテープや、写真ネガの廃品、燈心やキビガラなども玩具として売られ、鉄製の独楽、石版と石筆、ゴム紐や小さなガラス瓶入りのミカン水やニッキ水が店いっぱいに並べられていた。
天王寺中学を卒業すると彦根高商(現・滋賀大経済学部)を受け、次いで横浜商専を受験すると偽って上野の美校を受験したのが父親にばれてしまい、泣く泣く彦根高商に進む。貧乏絵描きで終わった父親に幼いころから苦労した父にすれば当然の反対ではあったが、美術部はなかった。仕方なく文芸部に入り、その中に美術部を作って文集のカットや挿絵、装丁などを引き受けた。卒業後の進路は自分の趣味と特技を生かせる有名ブランド会社の広告課か宣伝部を狙うことにしたが学校の求人掲示板に偶然グリコの名前を見つけて入社試験を受けた。創始者の江崎利一社長(現・勝久社長の祖父)ら最高幹部が居並ぶなかで「ぜひ私を採ってください。グリコのおまけをやらせていただきたい」と懸命に訴えたのが気に入られたのか採用通知が届いた。入社は昭和10年、通常は6カ月の現場実習が続くところを1か月だけで社長に呼び出され、広告課「オマケ係」という新設ポストについた。
この年、グリコは創業10周年を記念して大阪・道頓堀の戎橋脇にあのネオンサイン「ゴールインマーク」を設置して浪速っ子の話題をさらった。巻頭に入社した宮本が描いた御幣島(みてじま)の本社工場の絵(グリコ本社蔵)が紹介されているが戦後は洋画家として活躍した宮本は友人たちに呼ばれたZUNZOのサインを入れたが、まだ「順」のままだ。
佐賀県出身の江崎はなかなかのアイデアマンで、有明海沿岸での中国向けの干しガキ作りの際の煮汁に含まれるグリコーゲンを入れた栄養菓子を思いつく。大阪へ進出すると独創的なハート型キャラメルに「グリコ」と名付けて売り出した。当時は黄色の外函にエンゼルマークの森永キャラメルが業界の王様だったがそれに対抗する色として函は赤、マークは子供たちが極東オリンピックの選手を真似て威勢よくゴールするのを見て「これだ」とひらめいたという。
昭和4年にはオマケを別函にして本体にくっつけるというアイデアが生まれた。子供たちが店頭で買う際に、何が入っているかを触って確かめるので小売店から苦情が出ていた。オマケ自体は玩具問屋から間に合わせに仕入れた既成品で宮本には<おざなり>に思えた。ここからオマケ係・宮本ならではの工夫が始まる。宮本は ①感覚を磨くもの ②情操を養うもの ③知能を練るもの に分類して試作を重ね、見本を作っては幼稚園児や子供達を対象に実際の反応を確かめた。人気が高いものを重役会にかけて量産していくが、定期的に児童関係の文化人や建築専門家、俳人など多彩な顔触れで構成する「社外審査委員会」でも意見を聞いた。これがまた話題を集めた。他社ももちろん追従したが、後年(あまりいい意味ではないが)「グリコのおまけじゃあるまいし」と使われるようになったのも「おまけといえばグリコ」が定着した証左ではある。
入社4年後には中国・天津工場が完成、アンチモニ―(=アンチモン)などの金属材料やセルロイドなどに混じって「日華親善」をうたった紙製のオマケ(下)も登場した。中国での戦火が激しくなると金属類の統制が始まる。宮本はオマケの材料を求めて比較的融通がきいた旧満州の奉天などにも足を伸ばし、材料集めに奔走する。現地でも多くのオマケを発注したが太平洋戦争が始まった翌17年8月には塗装なし、オマケなしの「白函グリコ」が戦地に送られる軍需品として製造されるようになった。
昭和20年4月、天津で現地召集。中国語が堪能だったので農家から食料を調達する「集売」というのが任務だったが、中国服を着ての行動だけにゲリラに襲われ殺された仲間もいた。6月、大阪空襲で本社が全焼、蒐集していた膨大なおもちゃコレクションもすべて灰になり、いつかおもちゃ博物館を、という夢も消えてしまった。
最後に戦後の宮本の人生を簡単に紹介しておこう。
昭和21年4月、家族そろって佐世保に無事帰国。父親と共にセルロイド工場を立ち上げていたが工場を再開したグリコからの要請で<社外アドバイザー>としてオマケ作りに協力することになる。同25年10月、10円グリコにオマケ函復活、当時は高価だったプラスチックでオマケ用の「豆虫メガネ」を製造して大阪府の製品コンクールで特選に入賞した。事業を長男に譲ってからは「祭と踊り」をテーマにした画業に専念。平成3年に発刊したこの『ぼくは豆玩』では「将来の夢」と書いた郷土玩具や世界の人形・仮面コレクションを展示する記念館「豆玩舎ZUNZO(おまけやズンゾ)」を同10年東大阪市にオープンした。兄で日本学士院会員の宮本又次大阪大学名誉教授(経済学)から「オマケ勧進元」と評された宮本、同16年没。
表紙のオマケはどの年代にもなつかしいと思うがイラストは宮本本人、題字は9歳のお孫さんが書いたそうだ。ネオン管からLEDに代わって今秋公開された大阪・道頓堀の巨大広告は6代目とか。