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新・気まぐれ読書日記(32)  石山文也  水中考古学

いまも水中考古学の第一線で活動する井上たかひこが、小難しいはずの専門分野をわかりやすく紹介してくれる。「クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで」と副題にある『水中考古学』(中公新書)は、入門書であるとともに海底に眠る宝物を一緒に潜って探しに行くような知的冒険の旅にいざなう。

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水中考古学は水面下の遺跡や沈没船を発掘、保存、調査する研究分野である。著者の井上は「水中考古学の父」と呼ばれるジョージ・バス博士にあこがれて渡米、東洋人で初めて水中考古学の学位を取得した。以来、この道一筋、世界各地で多くの水中発掘調査に携わってきた。はるか遡ること3千3百年前、トルコ沖の地中海に沈んだ青銅器時代の難破船は、単に「ウル・ブルンの難破船」だけでは具体的なイメージが湧かないが、「金銀宝石類など時価数十億円相当を積んで当時の古代エジプト王朝の若き王ツタンカーメンのもとに向かう途中だったと推測されている」となると贅沢な積荷を想像する。さらに「不幸なことに嵐に遭遇、船長らの必死の操船もむなしく、激浪は木の葉のようなその船を翻弄し、海底深く引きずり込んでいった」と<時間経過>が込められると臨場感さえ感じる。

井上にとって初めての実地体験となるこの難破船の調査は、水深40メートルを超える深海潜水となった。船は水深43~51メートルもある急傾斜面に引っ掛かるように沈んでいた。水中メガネとシュノーケルだけで水面下10メートルまでを何度も素早く潜る訓練から始め、ようやく海底までの潜水許可が出た。潜水病の危険を避けるため、海底での滞在時間はわずか20分に制限されるから素早い潜水が不可欠。難破船の近くにはダイバーの安全確保と母船との交信用に透明プラスチック製の半球を鋼鉄の底板に取り付けたドーム型の「水中電話ボックス」が設けられた。ドーム内には母船からホースで常に新鮮な空気が送られるのでマスクなしで直接呼吸ができ、隊員同士の会話や船上への電話が可能だった。

東地中海のこのあたりは水が青く澄んでいても海底は見えない。先輩隊員二人の指導があるとはいえ、恐怖で顔が引きつった。慣れてくるとようやく船が沈む海底はさらさらした砂地で、その先は陸地のほうにせり上がる岩棚、背後の砂地は傾斜を深めて暗い海底へ続くことがつかめた。沈没船のまわりを、月面に降り立った宇宙飛行士のように、緩慢な動作で少しずつ歩いて行く。あたりには大小の壺や金属のインゴット(かたまり)、石の碇などが折り重なって散らばる見たこともない光景が広がる。目を凝らすとマンタのつがいが、広げた大きなヒレをマントのようにゆっくりと上下に動かしながら暗黒のかなたへ消え去った。

表紙の写真に写る壺はアンフォラという容器で、オリーブ、ザクロ、香料や香辛料として使われるテレピン樹脂、ガラス塊などありとあらゆるものが詰まっていた。金属インゴットは武器や甲冑などになる青銅の材料になる銅や錫で合計10トンもあった。寝台や椅子などファラオの調度品の材料に使う黒檀や象牙、黄金のペンダント、メダルや絶世の美女とされたエジプトの王妃ネフェルティティの名が彫られたスカラベ(タマオコシコガネ形のお守り)も見つかった。全長15メートルの船は真っすぐな木目をもち材質が緻密で含まれる成分から腐食や虫食いに強いことで知られる良材レバノン杉が使われていた。

水中考古学は海賊船になどに積まれた財宝探しのトレジャーハンティングとは違い、引き揚げ後の保存処理や調査分析が最も重要になる。「引き揚げてからの考古学」といわれるゆえんである。インゴットのような重量物や大型の遺物、かさばる壺などは鉄枠に入れてエアバルーン=水中気球で水面まで運ぶ。小さな遺物は区画ごとにエアリフト=吸い上げ式浚渫機で砂や泥と一緒に船上まで瞬時に運ばれる。これらが水中考古学の秘密兵器だ。出土した遺物の分析などから船はシリアかパレスチナ周辺で建造され、カナンの港あるいはキプロス島で荷物を積み込み、南トルコの沖をエーゲ海のロードス島やクレタ島を経由してギリシャ本土を目ざしていたらしい。沈没したのは遺物や陶器の形などから紀元前千三百年頃、古代エジプト第18王朝を支配したツタンカーメン王の時代に東地中海一帯を定期運航していた「王家の船」の一隻であろうと推定された。

井上は巨大地震で沈んだ「海のポンペイ」ジャマイカのポート・ロイアル海底都市、長崎県鷹島沖の元寇船の調査などを手がけ、いまはスポンサーを探しながら千葉県勝浦沖に沈む黒船ハーマン号の調査を続けている。幕末に始まった戊辰戦争の末期、榎本武揚が率いる旧幕府軍は箱館(函館)五稜郭に立て籠もって最後の抵抗を試みた。明治新政府はその鎮圧を東北諸藩に命じたが苦戦続きだった。ハーマン号は熊本藩主が実弟の津軽藩主のために横浜に寄港していた蒸気船をチャーターして援軍として向かわせた黒船である。藩士350名、米国人乗組員80名を乗せて出帆したが明治2年(1869)2月13日夜、房総半島沖でシケに遭い破船、藩士200名以上、乗員22名が犠牲になった。ハーマン号は挿画で紹介するように三本マスト、三層甲板をもつ蒸気外輪船。全長71メートル、二基のエンジンボイラーは最大出力1100馬力を誇る当時日本に往来した外国船では最大級の木造船だったが、視界不良のなか暗礁に乗り上げたのが原因で大破した。この大事故はニューヨーク・タイムズ紙でも報道された。くわしい調査が進めば「海から見た幕末・維新史の新資料」として注目されるはずである。

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水中考古学が産声を上げてまだ55年。日本ではなじみ薄い分野だったがユネスコ水中文化遺産保護条約などの後押しを受けて急速に脚光を浴び始めている。水中ロボットの利用でより深い海底にも手が届くようになった科学技術の進歩も見逃せない。海底遺跡をそのまま海中で保存・公開する「海底遺跡ミュージアム」という新たな試みも動き出した。この本ではエジプト・アレクサンドリア沖の海底に眠る女王クレオパトラの宮殿、イギリス・ポーツマス沖に沈んだ英国王陛下の旗艦メアリー・ローズ号、中国・泉州沖の宋代沈船、韓国・新安沖の元代海船、近代の海難事故では大西洋に沈んだタイタニック号、和歌山県串本沖で遭難したトルコ海軍のエルトゥールル号なども取り上げている。島国日本の周りにはまだ日の目を見ていない遣唐使船、御朱印船、南蛮船など数千もの歴史的な船が埋もれているほか、突然の大地震や洪水などで海に沈んだ島々、港湾なども多い。

「いまや水中考古学なくして人類の歴史や文化を語ることは不可能であり、水中考古学こそ魅惑的な海の謎を解明する扉口なのです」という井上は、子供のころ『宝島』を読んで海にあこがれた。それがやがて海底の難破船や宝物を巡る探検や調査に向かうことになる。「ギリシャ神話に登場する都市トロイアを発見したシュリーマンのエピソードのように、ワクワクするような夢をこの本に込めた。それが私たち水中考古学者のささやかな願いですから」という井上のことばを引いておく。

ではまた

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