あと読みじゃんけん(4)渡海 壮 天才
新聞に「下4段ブチ抜き」の広告が先日来、何回か掲載された。深刻な出版不況といわれるなかでは極めて珍しい。石原慎太郎『天才』(幻冬舎)は書籍広告には付きモノの「迫真の(か、どうかは別にして)ノンフィクションノベル」だという。「反田中の急先鋒だった著者が、今なぜ<田中角栄>に惹かれるのか」「人間は情と金で動く」の大活字が躍る。それにしても石原慎太郎がなぜ、しかも、あの<角さん>を!がぜん興味が湧いた。
書店にはこの『天才』とSTAP騒動で話題となった小保方晴子の手記『あの日』(講談社)が店頭の目立つ場所に競うように並べられていた。真っ白い表紙の小保方の手記の帯には「真実を否めたのは誰だ?STAP騒動の真相、生命科学界の内幕、業火に焼かれる人間の内面を綴った衝撃の手記」とある。『天才』よりわずか8日遅れの1月28日の発売だが、ともに「4刷」と肩を並べている。もちろん迷わず『天才』を購入したがカバーには文藝春秋が撮影した鏡を見ながら目を細めて裁ちバサミで鼻髭を整える田中の写真が大きく使われている。「石原慎太郎が田中角栄に成り代わって書いた衝撃の霊言!」と帯にある。
「それにしても、なぜ」が気になる方には16ページにわたる「長い後書き」から読むことをお薦めする。「世間は今更こんなものを書いて世に出すことを政治的な背信と唱えるかもしれぬが、政治を離れた今でこそ、政治にかかわった者としての責任でこれを記した。それはヘーゲルがいったように人間にとって何よりもの現実である歴史に対する私の責任の履行に他ならない」から始まる。「人間の人生を形づくるものは何といっても他者との出会いに他ならないと思う」という著者は、政界を共にした多くの政治家を挙げながら、「田中角栄ほどの<異形な存在感>などありはしなかった。歴史への回顧に、もしもという言葉は禁句だとしても、無慈悲に奪われてしまった田中角栄という天才の人生は、この国にとって実は掛け替えのないものだったということを改めて知ることは、決して意味のないことではありはしまい」と、自身と田中との運命的ともいえる出会いを書いている。対して、田中の石原評は「あいつはもともと物書きだからな、仕事として書くのは当たり前だろうよ。第一、俺はあいつに金なんぞ一文もくれてやったことはないからな」だったそうで「私としては角さんの金権の相伴に与ったことが全くなかったことにつくづく感謝したものだったが」と書き添える。
私、渡海の耳に残る田中が自身をさす一人称は「わたしゃあねえ!」という「わたし」と「あたし」の中間のあのしわがれた肉声である。いや私だけでなく<国民的記憶>のはずである。全編を貫くことになるのだから当然ながら著者も思案を重ねたろうが「成り代わって」書かれた本文は「俺はいつか必ず故郷から東京に出てこの身を立てるつもりでいた。生まれた故郷が嫌いという訳でも、家が貧しかったからという訳でも決してない。いやむしろ故郷にはいろいろな愛着があった」と「俺」で始まる。
博労(ばくろう)だった父親は、ともかく馬好きの道楽者。極みは北海道月寒(つきさむ)に大牧場を持つのが夢で、手持ちの山林を売り払いオランダから乳牛ホルスタイン3頭の輸入を企てる。米が1俵6、7円の頃、1頭が1万5千円もしたのに新潟まで運ばれてくる途中、暑さと疲労のため2頭が死に、かろうじて生き残った1頭も間もなく死んで、家はそれから傾いたが道楽もそれで止むことはなく、持馬が競馬に出るのに付き添って年中家をあけた。挙句、親戚の裕福な材木屋からの借金を父に代わって借りに行った俺は「お前の親父も金の算段の後先も考えずに駄目な男だなあ」と言われ、金の貸し借りというものが人間の運命を変えるだけではなく、人間の値打ちまで決めかねないと悟らせられたこと。幼少の頃からのドモリを克服するきっかけになった学芸会で『勧進帳』の弁慶を演じて満場の大喝采を浴びたのは、劇に伴奏音楽をつけて芝居の展開がリズムに乗るようにし口上をしゃべりやすくしたことで事前の仕掛けや根回しが必要なことを学んだ。後年、上京する時、母親から「大酒は飲むな。馬は持つな。出来もしないことはいうな」と諭された俺はこれを終生忘れなかった。
高等小学校を卒業した俺の最初の仕事は土方で毎日朝から夕方までトロッコを押して1日75銭、ひと月20円足らずだったのに腹が立ちやめてしまった。それが親戚にすすめられて応募した柏崎の県土木派遣所の職員として工事現場の監督になった途端、村の業者とはそれまでの立場が逆転し平身低頭されたことで世の中の<仕組み>を学んだ。軍隊での酒保担当では賄賂の効用という別の人間関係を学び、隠れて勉強した早稲田大学の建築に関する専門講義録が除隊後に始めた建築設計や工事請負などの仕事に役立った。戦時中は田中土建工業を年間施工実績で全国50社に発展させ、戦後は「若き血の叫び」を掲げて2回目の挑戦で俺は晴れて代議士になった。
54歳で総理大臣に登りつめる政治家としての立身出世ぶりは詳しく語られる。造船疑獄、日本列島改造論をぶち上げた真の狙い、角福戦争の内幕、日米繊維交渉と沖縄返還、なかでも1972年(昭和47年)の日中国交正常化で毛沢東と会った際に毛主席が挙げた四つの敵がソ連、アメリカ、ヨーロッパに次いで中国だったことは、後の文化大革命を引き起こす伏線だったと明かす。そして金脈問題からロッキード事件に始まる長い裁判と「闇将軍」と言われた日々、脳梗塞との闘病のあとの政界引退・・・。
「俺」のプライバシーも余さず語られる。若いころから部類の洋画好きだったこと。結婚のいきさつと5歳で夭折した長男や娘の眞紀子のこと。後年、秘書として切っても切れない仲になる佐藤昭(昭子)との出会い。神楽坂で知り合って結ばれ三人の子をもうけた辻和子。それぞれの家族との確執や胸に刺さる出来事のいろいろ・・・。75歳だった1993年(平成5年)12月15日、瀕死の容態を伝え聞いた辻からの電話を看護婦が取り次いでくれ、終えたあと昔見たアメリカの恋愛映画『裏街』の最後のシーンを思い出す。翌日の午後、かけつけた家族の呼びかけに応えてただ「眠いな」と答え、そのままもっと深く永い眠りに落ち込んでいった。
さまざまに「俺」の口から語られる「人を動かす極意」の究極にあった先見性に満ちた発想の正確さは石原の評する独特の文明史観をさえ持っていたことを裏付ける。唯一「俺」が語らなかったのは<自身が天才である>ということ。その「金権主義」を政治の場で最初に批判し、真っ向から弓を引いた政治家・石原慎太郎が、作家として田中角栄に成り代わって書いた本作は話題性も含めて歴史に残るはずで、皮肉な言い方をすれば執筆・題名を考えた作家・石原慎太郎もまた間違いなく<天才>なのではあるまいか。