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あと読みじゃんけん(7)渡海 壮 血族の王

岩瀬達哉の『血族の王』(新潮社)には「松下幸之助とナショナルの世紀」という副題がついている。妻と始めた大阪の町工場を事業拡大への飽くなき執念で世界企業に育て上げ、従業員38万人の一大家電大国へと成長させた松下幸之助。激動の時代を背景に数々の神話に彩られた「経営の神様」を、徹底した取材と新資料で描き直すことで血族の王たらんとした<もうひとつの顔>が見えてくる。

岩瀬達哉著『血族の王』(新潮社刊)

岩瀬達哉著『血族の王』(新潮社刊)

岩瀬は創業者の幸之助から七代目の松下電器社長となった大坪文雄が創業90周年を迎えた平成20年(2008)に和歌山市禰宜(ねぎ)にある「生誕の碑」へ参拝するシーンから書き始める。鈍い青色の緑泥片岩に彫られた文字は母方の祖父が紀州藩の元藩士で和歌山に縁のあるノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹博士が揮毫している。

蝉の声がいちだんと激しさを増したころ、目の前を一台のセンチュリーが音もなく滑り込んできて、バックで切り返すと、墓所と生誕碑のあいだの小道にぴたりと停車した。8月5日午前8時55分のことである、とあるから取材中に偶然目撃したのだろう。

このわずか2カ月後の10月1日、大坪は社名をパナソニックに変更し、誰もが親しんだナショナルというブランド名を廃止して社名とブランドの統一を果たした。さらに2カ月後の12月19日には、パナソニックの初代社長として三洋電機の完全子会社化に向けた資本・業務提携の締結を発表する。三洋電機は幸之助の仕事を長年手伝ってきた義弟の井植歳男が戦後間もなく創業した。幸之助の妻、むめのが淡路島の尋常小学校を卒業したばかりの弟を呼んで町工場時代から苦労を共にしてきた。お互いが離れたとはいえ<血族の企業>という因縁があった。「墓参はその交渉経緯を報告することで大坪は精神的な後ろ盾を求めたのかもしれない」と。

同じ和歌山市に生まれた岩瀬は幼いころから松下幸之助がいかに柔軟な思考と斬新な発想の持ち主であったかをよく聞かされて育った。周囲の大人たちが語る幸之助のエピソードの数々は「二股ソケットは、下着のステテコを見て思いついた」など少なからず脚色されて面白おかしく仕立てられたものが多い。しかも「遠い歴史上の人物」であると思い込んでいたが連載執筆の話があったときに迷わず選んだのは松下幸之助で「正伝を執筆する予感」さえあったという。幸之助には『私の行き方 考え方』『経営回想録』をはじめ社史など多くの出版物がある。それ以外の資料を独力で渉猟し役員OBや元幹部社員などの証言者を探し出すことで限りなく実像に迫ろうとした。取材と執筆の旅は実に7年がかりとなった。

松下家のルーツは苗字帯刀を許された地主階級に属し、祖父の代までは隆盛を極めていた。しかし父、政楠(まさくす)は祖父の死後、本業の農業は小作人任せにして養蚕、村会議員活動に熱中、挙句の果ては米相場の失敗で先祖伝来の田畑、家屋敷を失ってしまう。一家は、大八車2台に家財道具を積むと和歌山市内に引っ越し下駄屋を開業するが2年ほどで閉店に追い込まれた。政楠が相場から足を洗えなかったことにもあった。明治37年(1904)11月23日、尋常小学校を4年で中退した9歳の幸之助も<荷物は着替えのシャツなどを入れたふろしき包みたった一つの着の身着のままの姿>で和歌山から大阪に向かった。日露戦争の勃発で世相は暗く、旅順総攻撃は連日のように苦戦が伝えられていた。親元を離れて奉公したのは大阪の繁華街・千日前に近い八幡筋の宮田火鉢店だった。ところがわずか3カ月目に店が廃業することになったため、店主の紹介で当時は新しい商売だった自転車店の小僧になる。おもに英国製自転車を扱う店として創業した五代自転車商会は、幸之助が奉公に来て二カ月後、船場堺筋淡路町から内久宝寺町に移転した。この店で幸吉と呼ばれて6年間、一人前の商人になるための修行に励んだ。

幸之助は常に「ぼくが今日あるのは、やはりこの店でご主人と奥さんから実に親身で、またきびしい指導を受けて、知らず知らずのうちにも商売の道というものを体得することができた、そのおかげである面が大きい」と懐かしんでいる。奉公していた五代自転車商会には関西地区の自転車選手がよく顔を出した。一時は選手になりたかった幸之助は、仕事前の早朝練習を重ねて競争会と呼ばれたレースに出場するようになると賞品を稼ぐまでになった。幸之助は父の死などの寂しさを埋めるように自転車に熱中するが堺の競争会でゴール前に落車、鎖骨を折る大けがで一時は人事不省となり、主人から以後の出場を禁じられてしまう。おりから番頭と小僧の中間で、商売がうまかった手代が店の商品を他所に売り、代金を使い込むという事件が明るみに出て、それを主人が訓戒だけで済まそうとしたのが許せず店を飛び出すことになる。

その後はセメント会社の臨時運搬工、大阪電灯の内線工を経て、北区大開町でアタッチメントプラグの製造を始めた。むめのとの結婚後は猪飼野に2畳と4畳半2間の平屋を借り、大阪電灯時代の同僚二人が加わった。これがすべての躍進の始まりになるところだったが登録実用新案が認められた「松下式ソケット」はようやく完成には漕ぎつけたものの大阪の街をかけずり回っても百個ほどしか売れず、用意した資金も底をついた。給料も払えず、社員も去っていってしまったから歳男の呼び寄せは苦肉の策でもあった。初めて「ナショナル」の商標をつけた自転車用角型ランプ、ラジオ・セット(受信機)が売れ行きを伸ばして日本全国に販売店網ができていく。なかには電球のように技術力や品質が及ばない二流品を<情>で引き受けた販売店の苦労もあって「一大コンツェルン」を築いていく。

戦中から戦後へ、松下電器グループはGHQにより財閥に指定され、一族には「財閥家族の指定」がなされた。巻末には参考資料として6ページにわたり財産目録などがある。苦境打開を目指して経済研究所のPHP研究所を立ち上げて間もなく幸之助自身が公職追放となり、奈落の底に突き落とされてしまう。そこからの再出発はまさに「明るい光あればさらに暗い陰あり」ではあるまいか。「義兄弟の違う道」で井植の独立を、「崩れゆく王国」では社史に汚点を残した中国への密貿易事件を取り上げる。「経営の神様」といわれた幸之助神話が光であるとすれば、晩年の幸之助は経営を松下家にとって盤石なものにするための焦りが陰となって付きまとった。多くのビジネスプランが反故にされ、人事抗争が渦巻いた裏面史も語られる。終章「ふたつの家族」では幸之助と井植の<もうひとつの家族>にもふれられている。こちらも間違いなく名経営者が秘かに大切にした<血族>であろう。

*岩瀬達哉『血族の王―松下幸之助とナショナルの世紀』(新潮文庫、2014)

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