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書斎の漂着本(88)蚤野久蔵 琵琶湖底先史土器序説

この連載を始めるにあたり「わが書斎には高価な本やいわゆる稀覯(きこう)本の類などはない」と紹介した。事実その通りなのであるが、今回紹介する『琵琶湖底先史土器序説』が滋賀県下の公立図書館などにどのくらい収蔵されているのかを検索してみる気になった。ご覧のような裸本で、中表紙など2カ所に紺色インクで押されていた3センチ角の蔵書印もなぜか削られている。図書館の蔵書なら表紙のほうは外されていて期待できないかもしれないが、ひょっとしてどこかの図書館から盗まれたものか、貸し出されたまま返却されなかったではないか、というのは考え過ぎとしても例えば蔵書印が押されているとすればインクか朱肉とか、その位置も確かめたいと思ったからである。

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こんなときに重宝しているのが滋賀県立図書館のサイトにある「滋賀県図書館横断検索」で、書名、著者名、出版社を入力すると県立図書館だけでなく市町立図書館や県下の各大学、研究機関の図書館、近畿各府県立図書館、京阪奈学研都市にある国立国会図書館まで一括して検索できる。もちろん単なる「思いつき」ではあったが、発行所の京都の学而堂書店も出版事業から撤退して久しいようだし、昭和25年2月発行、5百部限定というのも気になった。

検索でヒットしたのはただ一カ所、滋賀県某市の市立図書館だけだった。これはひょっとして・・・などと思いながらある日の午後、手持ちの本を抱えて<いそいそと>出かけた。カウンターにいた女性にその本を示して理由を話し、同じのを閲覧させていただきたいと申し込むとパソコン端末をたたいて「残念ながらうちには在庫がありません」という返事。「自宅で調べた横断検索ではこちらに一冊だけ在庫ありと出たのですが」と食い下がったものの、念のためもう一度、検索してもらうと不思議なことに県立琵琶湖博物館はじめ20カ所ほどで「在庫あり」と表示されたのに、この図書館にはなし。仕方なく帰り道にある隣市の市立図書館で閲覧することができた。図書館の開設に当たり市民に不要蔵書を持ち寄ってもらったなかの一冊だったようで所有者名が毛筆で書かれていたが館の蔵書印は押されていない。司書の方によると図書館での蔵書管理は背表紙下に貼るラベルが一般的であるとのことで「何でわざわざ蔵書印を削ったのでしょうねぇ」と興味は示されたもののそれ以上の進展はなかった。

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検索でなぜそうなったかの「謎解き」は後回しにさせていただくが、まずは『琵琶湖底先史土器序説』はどんな内容なのかを紹介しておきたい。著者の小江慶雄(おえ・よしお)は明治44年(1911)琵琶湖の北端、滋賀県湖北町(現・長浜市)に生まれた。九州帝国大学で考古学を学んだあと京都学芸大学(現・京都教育大学)で教鞭をとり、多くの考古学者を育て学長をつとめた。なかでも出身地近くの菅浦半島先端の葛籠尾(つづらお)崎東側の湖底に眠る先史土器の学術調査をはじめ、地中海を中心にして調査が進められていた水中考古学を日本の考古学界に紹介したことなどからわが国水中考古学の第一人者として知られる。葛籠尾崎の2キロほど南に浮かぶ竹生島には「琵琶湖八景」のひとつで西国三十三番札所三十番の宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社がある。小江は漁師が船上から仕掛けた地引網に引っ掛かって揚がった土器が地元に保管されているのを知り、その時代区分などを分析し、この本で学術資料として紹介した。多くは壺や甕だったが鉢や高杯などもある。計23点のうち縄文式土器が6点、残りは時代がさがる弥生式土器に分類した。これは小江が「湖底発見土器中最も秀れたもの」とした高さ10センチ、直径20センチの「磨消縄文土器」で、完形での発見例は畿内や近隣地方では珍しいと評価している。溝の一部には朱が残っていることから朱彩を施して飾っていたものらしいとしているが余程のお気に入りだったのか表紙に「陰刻」しているのがおわかりいただけるだろうか。

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この本で小江は「湖底の土器はかって半島上に集落が営まれていてそこで用いられた土器が湖面の上昇や波の浸食などで湖底に沈んだのではないか」と示唆するにとどめている。自身の考察についても「湖底土器の研究が一歩前進したとは考えない。湖底の文化遺物の十分な究明は一学徒の微力を以てしては果たし得ないところであり、地史学・地形学・湖沼学等の科学陣の参加によって、湖底という制約が克服されて初めて所期の目的が達せられるであろう。ただ今後樹立さるべき湖底遺跡研究の上に小さいながらも一下絵を描き得たとすれば幸である」とあくまで控えめな感想を残している。

戦後の考古学会は、ともすれば開発などに伴う陸上の遺跡・遺構に調査が追われるなかで小江は琵琶湖の湖底に眠る多くの遺跡調査や海底遺跡、海外ではイラク・ティグリス川での水没文化財調査団などに参加するなど水中考古学にこだわり続けた。京都教育大の学長時代の昭和50年(1975)には講談社から『琵琶湖水底の謎』(講談社現代新書)を出版し私の愛読書の一冊になっている。そのなかで縄文から弥生時代にかけて琵琶湖の北岸で生活を営んだ人々を「葛籠尾人」と名付け、彼らが持ち続けた「母なる湖への信仰」が紹介されている。

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ところで、なぜ蔵書印が削られたのかであるが、そのすぐ脇には「謹呈」の二字と署名がある。著者とは違う名前だからこの人物がどなたかに贈ったものらしい。とはいえ自分の蔵書印を押したものに謹呈と書くのも解せないから印はその後に押されたのだろう。それにしてもあえて削ったのはそれなりの理由があったのか。私の推理はここまでであるが最後に検索した際の<在庫のあるなしの謎>について紹介しておきたい。実は<空振り>で自宅に戻ってから再度検索してみてようやく自分のミスに気がついたのである。つまり「琵琶湖底」と入力すべきところを「琵琶湖湖底」と「湖」の字が余分だったというわけ。せっかく某市の市立図書館まで出かけながらお目当ての本に出会えなかったのもカウンターにいた女性が<正しく入力>してくれたからである。文字通り「一字違いが大違い」のお粗末な結末である。

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