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私の手塚治虫 第27回  峯島正行

私の手塚治虫 (第27回)
 アニメ鉄腕アトムの四年間
                  峯島正行
  手塚の作家精神  
            
手塚のアニメ制作方針は、前に述べたように、まず、第一に、実験的、芸術的なアニメの制作であり、そういう作品を継続的に制作するための、必用な資金を得ていく必要から、テレビの視聴者大衆を動員できる娯楽的な作品を作っていく、というものであった。その方針にしたがって、最初に作られた実験的な芸術作品が、「ある街角の物語」であり、次に、作られたのが、多くの子供たちを喜ばせた「鉄腕アトム」である。これがテレビ放映され、大成功を収めた。しかしその大成功ゆえに、娯楽作品としての成功を、一層発展させようという雰囲気も、生まれたことは確かである。
その経緯は、前回まで縷々述べてきた通りである。
手塚は「鉄腕アトム」の制作にあたっても、当初の基本姿勢を崩すことはなかった。手塚にとって「アニメ作家とはあくまで、実験作品を作ることで、芸術の前衛を切り開いて行く存在であり、厳しい生き方を強いられるものだ。そうしたアニメ作家の集合体が虫プロである。そんな虫プロが、娯楽作品を作って儲けようとするのは、あくまで実験アニメの資金を得るためで、生活安定のためではない」
この精神に徹していた手塚は娯楽作品である「鉄腕アトム」であっても、手塚の作品として納得のいく作品でなければならなかった。だから実際の制作現場では、一話、一話、制作をするに当っては、最初のキャラクターの原画制作、絵コンテ、シナリオ等、アニメの内容の根本をなす作業は、手塚自身が制作するか、或いは出来上がった案を手塚が承諾するということを厳密に実行した。  一話の作品が完成してからでも、気に入らなければ納期を遅らせてでも、徹底した作り直しをさせた。それには莫大な経費がかかったが、その埋め合わせのためなら、命を削るような思いで描いた漫画の原稿料を、惜しげもなくつぎ込んだ。

ただ、毎月、毎週の雑誌漫画の執筆、それに虫プロの経営の仕事、アニメ制作と、いくつも仕事が重なって、漫画原稿の締め切り時など、アニメのシナリオや絵コンテ、原画のキャラクターなどの仕事が、遅れて、しばしばアニメのスタッフの「先生待ち」という状態になり、スタッフ全体が手を空けて待っているというような状態が現出し、その為に生ずる出費も莫大なものになることも多かった。手塚の理想に共鳴して集まってきたベテラン・スタッフたちも、手塚の精神を自分のものとし、作品の質を維持するために払われる出費がいくらだろうと、自分のベストを尽くすという考え方だった。そのため寝食を忘れ、仕事に没頭するのが、虫プロ・アニメーターの意地であった。

重役たちの問題

以上のような状況の中で、「鉄腕アトム」は次々と視聴率を上げて行ったわけだが、その間、経営に当たる重役たちは、ただ人員の増加をもって、多忙さを切りぬけていったとしか思えないのである。当初6人で始まったスタッフが、昭和四〇年代に入ると、350人に膨れ上がってしまった。その人件費だけでも莫大である。
創業以来勤務している幹部アニメーターの給料は、日本のサラリ-マンとしては超高級になり、航空会社のパイロット並みとなったといわれ、一般のスタッフとの差が付きすぎてしまった。前にも言ったが、これが虫プロ崩壊まで糸を引くことになる。手塚は「といって大勢の社員の給料を上げたら、虫プロは崩壊する。頭が痛い」(月刊「現代」 昭和四二年九月号)と嘆いた。
ともあれ「鉄腕アトム」の成功によって事業としては赤字だったが、巨額の金が動いたことは確かである。巨額の金が動けば、当然それに群がる、わけのわからぬ人物が往来する。社員が増えれば、おのずから派閥や、それによるいがみ合いさえ起きるのは、当然の成り行きであっただろう。
当時、文芸進行課長という職にあった石津嵐はその頃の思い出について、次のように述べている。
「この頃の事では本当にいやな思い出しか残っていない。例えば、上層部では、重役同士の牽制から、役員閥とでもいったものが出来上がり、主だったスタッフたちはそれぞれの閥につながって、何やらきな臭い動きに終始していた。
そんな雰囲気に入りこめないスタッフたちはいつか知らず知らずのうちに蹴落とされ、裏切られ……」(『秘密の手塚治虫』 昭和五五年 太陽企画出版)
それに次いで、石津は、一つのエピソードを紹介している。沢山あった鉄腕アトムの原作も、二年程のするうちには底をついてきて、アトムを続けるためには、オリジナルな話を作っていかなくてはならなくなった。そのストーリーを造るためには、手塚と話しあい、その意中をくみ取って、新規な物語を創作し、それを、シナリオにまで組立てなければならない。その創作とシナリオを造るために、若い新進のSF作家、豊田有恒が起用された。豊田は、こうして虫プロの企画文芸課長の石津の元で、シナリオを書いていた。
ところが、時を同じくして、虫プロの次期作品として、新たに企画されていた作品の重要なキャラクターと近似したものが、某テレビ局の新番組の中で、そのまま使われていることが判明した。明らかに企画漏洩であった。誰かが某局に秘密を流したと疑われた。ところで、豊田が、その某局でも仕事をしていたのである。厭な空気が社内に流れた。豊田が情報漏洩の当事者と疑われたのである。
ある日、石津は役員室に呼びつけられた。そこには専務、常務といった連中がならんでいた。席上、代理店萬年社を辞めて虫プロ常務となった穴見薫が「企画を他局に漏らした犯人は豊田君としか思えない。君は彼の上司として、彼の身近にいる人間だ。思い当たることはないか」と問うた。
石津は自分にこの問題が絡んでくるとは思っていなかったので、驚愕した。
「そんな馬鹿な!豊田君に限って、そんなことをするような人間ではない」
さらに穴見は「某局の作品がつくられている同時期に、豊田君はうちのシナリオライターとして働いていたのだ。彼を疑うのは当然だ」という。
「いい加減にしてくれ、彼がそんな卑劣なことをするわけはないじゃないか。僕は男として、豊田を信じているのだ。彼の人柄を私ほど知っているものはない」
と石津は激怒して、怒鳴りまくった。
それから間もなく豊田の冤罪が晴れたが、一時期的にせよ、冤罪を着せられて傷つかぬ者はいない。豊田はそんな虫プロ幹部に失望して、虫プロを去って行った。後でわかったのだが、この時の真犯人は、石津を難詰したその重役にごく近い人物だった。
「よくもまあ、ぬけぬけとあんな尋問めいたことがやれたなものだ」と石津はそんな重役の存在を嘆いた。豊田は、その後、SF作家としてどんどんと実績を上げて行った。石津もやがて虫プロを去り、SF作家としての道を歩んでいくことになるわけだ。
このような経営陣を抱え、生涯の夢だったアニメを作っていった、手塚に、深い同情の念を禁じ得ない。
しかも、多くの従業員を抱えるしか能のない、これらの幹部たちが、虫プロがいつまでも赤字である責任を、芸術にこだわるあまり、仕事を遅らせ、出来上がった作品を自分のイメージに沿わないと、平気でリテイクをさせる、手塚の責任のように言いまわしていることを思うと、手塚の純粋さが気の毒で、涙が出てくる。

豊田有恒は、後年虫プロ時代を回想して、次のように言っている。手塚は「実際のところ、社長の仕事をするよりも、一クリエイターとして現場に居たかったようだ。シナリオ部門ばかりでなく、アニメの制作現場などにもよく顔をだしておられた。クリエイターであることを好んでいたからで、こう言っては語弊があるだろうが、社長の器ではなかった。社長ならだれでも勤まるが、世界の手塚治虫の仕事は、手塚治虫以外の人間にはできない」といい、制作中の作品のラッシュ試写の段階にいたって、リテイクが出ることがあったが、こういう場合「手塚治虫という人は、社長としての判断かけていた。(中略) 社長としての判断ならこうなるだろう。これは会社の信用にもかかわる欠点だから、リテイクしよう、だがこのミスの方は、まあこのまま出してもそれほど信用が損なわれるというものではない。だから不満は残るがこのままにしよう。社員も疲れているからここでは無理をさせられない。こういう判断が、世の中の社長のものだろう。だが、手塚先生はそうではない」(『日本SFアニメ創世記』 TBS・ブリタニカ 二〇〇〇年)
たしかに、手塚は社長の器ではない。それに数字、つまり金勘定のわからない人だ。このことは、虫プロが倒産した時、その整理に当たった葛西健蔵氏が、手塚の天才ぶりと人柄を称揚しながらも、百万円以上の金勘定になると全く分からない人だったと回想している。
だから、手塚のもとで経営の任に当たる人は、会社経営の経理部門の数字をはっきりつかみ、芸術家気質の手塚が納得する説明をしなければ、ならなかった筈である。その経営に当たった重役が、経理、会計に疎く、制作にあたって原価計算もしなかったことは、前述したとおりである。
作品内容については手塚の目が行き届いていたが、経理経営面では、どんぶり勘定のまま、進んでしまったのである。
そして社員の数が300人以上に膨れ上がるにつれて、人間的な問題が複雑になり、浅ましい問題まで起きるようになったのであろう

製作費を巡って

先にフジテレビと、鉄腕アトム放映の契約するとき、手塚は、フジテレビの幹部や広告代理店の萬年社の担当者の前で、鉄腕アトムの一回分の制作費は、55万円でいいといい、それで契約が成り立ったことを述べた。その席上には、虫プロの山下専務が同席していたことは確かである。
これは手塚の自伝『ぼくはマンガ家』の中で、述べられている。その席に萬年社の担当者の穴見薫がいたかどうかは、分明ではない。しかしこの事実は、身近な問題として知っていたことは確かだろう。フジテレビからの制作費は、55万円として契約が結ばれたとなっている。
ところが実際払われていたのは55万円でなく、155万円が支払われていたと、後年出版されたアニメ史研究書でも指摘されている。例えば『アニメ作家としての手塚治虫』 (津軽信行著 NTT出版 平成一九年)の中で、著者が虫プロの営業担当者だった須藤将三という人にインタビューをしている。それを引用させて貰うと
「これは穴見さんと、それから今井(義章)さんしか知らなかった話なんですが、『50万円はあまりにひどいよ』ということで、手塚さんには『50万円でうけていますよ』と話していましたけれど、実際は代理店の萬年社から155万円を受け取っていたんです。それでも非常に安いですけどね」
と須藤は言っている。これについて、著者は、「最終的な契約は一本55万円というのは事実だが、実は萬年社が虫プロとの裏契約的な措置として、萬年社がプラス100万円、つまり155万円を虫プロに払っていたという、驚くべきエピソードである」と述べ、さらに
「スポンサーとの交渉の場面に立ち会っていた虫プロのプロデューサー今井義章や萬年社の穴見薫らが再度スポンサーと交渉し、虫プロへ155万円が払える程度の条件を得て、手塚には55万円で契約していると言いつつ、実際には155万円が虫プロに支払われていた……。
それにしても放送局やスポンサーとの関係を考えると、虫プロがそんな『二重契約』のような状態で作品を代理店に送り込んでいたことが公になって、問題にならなかったかという疑問がわいてくる」と述べている。
「虫プロが萬年社から『二重契約』を得ていたとすれば、よく言えば虫プロという一法人の経営戦略が功を奏したといえようが、業界全体のありようを考えると、やはりこれは禁じ手である」と断じている。
また『日本動画興亡史 小説手塚学校』(皆河有伽著 講談社 平成二一年)という本によると、上記の問題について、手塚が、55万円で交渉した段階では、スポンサーの明治製菓、萬年社、虫プロの間には、まだ正式な契約書が交わされていなかったらしい。だから後になって
「手塚には内密に、一本分の制作費を155万円とした契約が取り交わされた。
本来、虫プロの社長である手塚が判を押さねば、契約が成立しないはずだが、手塚はこの事実を放映開始から半年近くの間知らされなかったという。
社長も知らぬ間に契約を成立させてしまうことができる……この不思議な体制が数年後、虫プロの危機を招くことになる。」
とこの本には書かれている。この文章の結びの部分は甚だ、不穏な話である
手塚の知らぬ間に印が持ち出されて、契約書に捺印されていたとすれば、明らかに違法である。著者は「この不思議な体制」と言っているが、誠に怖いはなしである。と共に、これが事実であったなら、純粋な「世界の手塚」を冒涜する事態であったといえよう。
以上二つの研究書を、たまたま私が読んだわけだが、ほかにもこういうレポートがあるのかどうかは、今のところ不明だが、このレポートの内容が真実であるかどうか、今の私には、調べようもない。だから、ここでは、このようなレポートがあるという報告だけにとどめて置く。

ただ穴見は、その何年か後、虫プロ商事を設立するとき、手塚の知らぬうちに、預かった手塚たちの実印を使って、手塚のアニメ全作品の放映権をテレビ局に売り渡す契約をして、虫プロを崖っぷちの危機に陥れたことがあった。それはいずれ、後段で述べるが、その萌芽が、このテレビアニメの最初の契約のときに現れているのかもしれないと思うのは、単なる邪推で済まされるかどうか。

赤字体質の実際

テレビアニメ「鉄腕アトム」のキャラクターが、商品に利用された版権料、いわゆるマーチャンダイズで稼ぎ、またアメリカに版権が売れて、版権料を稼いだにも拘わらず、虫プロは赤字だったらしい。週一本の制作費は、当時から250万円かかると、ずっと今日までいわれてきたが、この金額は、直接生産費なのか、間接経費や、人件費まで入れた額なのかは、分らない。いずれにしても、テレビ局から支払われる制作料だけでは、大赤字だったに違いない。それを、マーチャンダイジングによる収入や、アメリカに版権を売った代金で賄ってきたわけであるが、それでも、間に合わなかったようだ。
虫プロの中では、海外に版権輸出と、マーチャンダイジングによって虫プロは儲かっている、という空気が流れていて、そういう気分からおのずと増えていく出費の増大によって、赤字は、解消には向かわなかったらしい。
この赤字は、さすがの経営陣にとっても頭痛の種だった。その頃の経営陣の困惑ぶりを前掲山本暎一の『虫プロ興亡記』に拠ってみよう。
昭和三九年末の事と思われるが、ある日、チーフ・アニメーターの山本は重役室に呼ばれた。そこには穴見常務が待っていた。
「虫プロもねぇ、表面華やかだけど懐は苦しいんだよ」と常務がいう。
「まさか、だって、マーチャンダイジングの収入や海外売りやら、いっぱい入ってきているんでしょう。虫プロが金に困っているなんて誰が信じますか」
「しかし『鉄腕アトム』がテレビ局からくる製作費だけで出来てないのは、分るだろう。その制作費の赤字は莫大な額だ。版権収入や海外売りは、それを埋めるのにかなり消えてしまう」
「はあ」
穴見の説明は続いて行く。次の大企画である「ナンバー7」と「虫プロランド」の準備に金を食われている。さらに将来の発展を目指して増やしている社員の人件費とその教育費にも金がかかっている。それに設備投資も盛んである。第一スタジオの建坪を倍にしたし、道を挟んで、畑を借り、第二スタジオの建設中だ。ほかに二つの分室の部屋も借りているし、高価な撮影機や、連絡用の自動車も買い込んでいる。これではいくらアトムが稼いでも金は足りない。
本来なら、マーチャンダイジングの収入の大部分は原作者の手塚治虫個人のものであるはずである。それを全部、手塚からの借金ということにして、虫プロで使わして貰っているのだ。以上のことを穴見は諄々と説くのであった。
その上で、この赤字体質を治すために、これから制作するものは、制作費を倹約するために、一作ごとに制作予算をたて、その範囲内で制作して、その原価以上の金額で売るようにして、虫プロを黒字体質に変えていくのだと、穴見は山本に説明したという。
その方式による第一の作品に、手塚の名作「ジャングル大帝」を持ってくるというのであった。その総責任者、プロデューサーに、山本がなってほしいというのが、穴見の相談の目的だった。
当然、手塚の了解が必要な大事である。その了解を得ていると穴見は言う。

 プロデューサー・システムの導入

やっとここにきて穴見たちは、生産に当たっての金銭管理、経理のあり方について、無知な自分たちのやり方のまずさに、気が付いたというわけだ。やっと売値以下の金で商品を制作しなければ、企業は成り立たないことに気が付いたのであった。遅きに失する。それでは経営者としては落第だ。それでもなお、経営に対する自分たちに無知と無策を棚に上げて、赤字の責任は、手塚の作家的な芸術家的な制作方法にのみあるような考えから、抜けられなかった。手塚を抑えれば、黒字に転換できると安易に考えすぎていたと私は思う。

手塚は、次のように述べている。
「一昨年五月(昭和四〇年)、虫プロでは、穴見薫常務がこれまでのドンブリ勘定的経理を改め、虫プロを儲かる会社にしようとその改革に着手、まず僕にこう提言した。『手塚さん、あなたは経営に作家的立場を持ち込みすぎる。改革の第一歩はあなたに経営の主体からのいて貰うこと……今後の経営は、私たちにまかせてください』ぼくは彼の意見にしたがい、それまでのワンマン・システムを改めて、各人の個性を思う存分発揮してもらうため、社内にプロデューサー・システムをしくことにした。この新しいシステムによる第一作が『ジャングル大帝』である。(中略)勿論『ジャングル大帝』はぼくの原作だが、これのアニメーション化はぼくよりはるかに若いスタッフが手掛ければきっと若々しい、子供たちにアピールする作品になるだろうと期待した。思い切ってプロデューサー・システムに切り替えた理由の一つも、そこにあった」(月刊「現代」 一九六七年九月号 鉄腕アトム苦戦中)
そのプロデューサー・システムの第一回目のプロデューサーに選ばれたのが、山本であった。
穴見は、山本に向かって苦しい虫プロの経理面を説明したうえ、プロデューサー・システムに切り替えるにあたって、その最初の作品を山本にやってもらうことが、重役会で決まったから、早速準備にかかるように、と強く言うのであった。
漫画「ジャングル大帝」は、それまでの手塚の代表作の一つとされた傑作で、昭和二五年から七年間「漫画少年」に連載された長編ストーリー漫画である。手塚の作品の中でもひときわ長い大河ドラマであった。
アフリカのムーン山近くのジャングルの王者、白いライオンのパンジャの子、これも白いライオンのレオが、人間に育てられ、やがてジャングルに戻り、人間がきづいた文明を動物社会にも移そうと奮闘する物語である。
穴見は「これを30分番組で、毎週一回放送して、一年間、52本作る。勿論オール・カラーだ。どう、引き受けてくれるかい」
「やります。やらせて下さい」
これをやれば、先行する「ナンバー7」や手塚代表作の一時間番組「虫プロランド」担当の、坂本や杉井に肩を並べられる。山本の競争心を煽る提案である。
「坂本さんの『ナンバー7』の次の放送予定だ。今から準備してくれ。ただし三つの条件を守ってほしい。アメリカに売ることを成功させたい。そのためにNBCの関係者と話し合った結果なのだ。
第一が、放送一回一話完結、放送の時の順番を変えてもいいようにするためだ。
「しかし、先生の原作は話が連続して続いて行くんです。それを順序変えて放送したら、目茶目茶になっちゃう」
「そこを何とか、ストーリー構成で工夫してくれ。第二は黒人を出さない。もし出すなら悪役に使わない。第三は人間が動物を苛めないこと。まあ槍を突きさしたり、切り刻んだりしなければいいのだろう」
「先生は承知なんですか」
「承知している」
「手塚フアンは怒るだろうなー。どうでもあの名作をぶっ壊しても、アメリカに売らなきゃならないのですか」
「さっき話したような、経済事情でな。それを救うのは『ジャングル大帝』で成功するしかないんだ。最後にもう一つ条件がある」
「まだあるんですか」
「それは制作管理面だ。作品が出来たけれど、制作費に湯水のように使ってというのでは困る。厳密な予算管理の下でやってほしい」
「予算管理っていうのは、誰がするんですか」
「君に決まっているじゃないか。一本250万円、52本で1億3千万円、君に預ける。その範囲で作ってくれ。かかるものはしょうがないというやり方は止めにしてくれ」
穴見は初めて、もの造りの会社の重役らしいことを言った。今までは、それこそ、掛かるものはしょうがない、虫プロのあらゆる出費は「制作費」という「勘定科目』で一緒くたに処理すると言う、大雑把なものである。それをやめて、一本あたりに予算を立ててやろうとするのであった。
引き受けた山本は、原作を克明に読んで原作者の手塚の注文を聞く事から始めた。
手塚は、聞き分けのいい返事と意見を述べた。「あれは一〇年以上前の作品で今の子供にアッピールするように、現代感覚でやってほしい。ただ原作の持っている壮大な叙事詩という感じはなくさないで下さい」と話の分かるところを見せ、それから、放送の一年目は、レオの子供時代編にして、好評なら二年目大人時代編にするようにアドバイスするのであった。つまり大人と子供の二つのキャラクターに分けてそれぞれのエピソード集にするのがいいと、言うのだった。これだけ、大胆な料理法を出されると、山本は思い切ってやれると、肩の荷が少し軽くなったという。
ストーリー作りにかかるにあたって、シナリオライターに気心の知れた、辻真先を起用して、ストーリーを練った。一方、予算による制作の方は如何にするか、という問題は、先行する「ナンバー7」の制作費の立て方を見て、参考にしようと暢気に構えていた。ところが、その年、昭和三九年の暮も押し詰まって、穴見が慌ただしくやってきた。
「大変だ。坂本さんが、『ナンバー7』の制作担当を降りた。『ナンバー7』は中止だ」
坂本は、虫プロのプロデューサーで、アニメーターのトップである。その人物が新企画を降りたとなると大変ことである。
「『ナンバー7』は中止、虫プロランドは、この正月『新宝島』一本の放送で終わることに決まった。そうなると虫プロの放送のアニメは『鉄腕アトム』だけとなる。ここまで大所帯になった虫プロは支えられなくなる。だから残ったのは『ジャングル大帝』しかない。来年早々現場に入って、一〇月放送は可能だな、」
「まあまあ」
「その線で頼む、もし失敗したら、虫プロはおしまいだ」
山本は期せずして、虫プロの存亡を担うことになった。山本は考え込んでしまう。山本のアシスタントについた もり・まさき(後年漫画家となった真崎守)が、「でも、日本最初のオール・カラーのアニメをやるんだから楽しいじゃないですか」と山本を励ましたという。

アニメ「ジャングル大帝」の完成

昭和四〇年の正月四日。「ナンバー7」の中止、「ジャングル大帝」の発足などの新事態に備え、スタッフの編成替えが行われた。その会議には手塚を始め、プロデューサー、チーフ・ディレクターが集まった。山本は「ジャングル大帝」班に115人のスタッフを要求した。社内で一貫作業するために必要な人員だった。制作費の無駄を省くよう指示されていた「鉄腕アトム班」は90人の要求だった。虫プロの製作スタッフは230人いたから、25人ばかり余る事になった。そこで手塚が提案した。「W3」という手塚の漫画を急遽アニメ化する。チーフ・ディレクターは手塚が担当、白黒で30分、週一回放送の番組とすることに決まった。「鉄腕アトム」班から10人減らし、「W3」班は35人として、労力が足りない分は外注で間に合わせることになった。
「大丈夫ですか、先生」と穴見が心配したが、手塚は
「こうなったらやりますよ」手塚は意気軒昂ぶりを示した。
52本分の粗筋が出来たところで、山本は手塚の意見を聞きにいった。手塚は、ストーリーは最後の締め切り間際までに考えろ、と機嫌が悪かった。しかし、山本としては、端からスト-リー作りにかけたら日本一の手塚の目に適う筈がないと思っていたので、傑作を作ろうとするのを諦め、どんなことがあっても、時間に間にあうものを作る気持ちで、ストーリーを作った。これも予算の範囲で仕事をする、手段の一つであった。
もう一つ、予算の範囲で作るのは、計画的な生産である。その為には、一作ごとに、企画、作画、撮影、現像、編集、音響といった制作のプロセスごとに、いくらかかるかを掴んでいないといけないし、しかも完成後いくらかかったかを知るだけではなく、途中の時点でわからないと統制ができない。それらの方法は坂本の経験をもとに作ろうと思っていたのだが、もはやそれは自分でやるよりほかはない。
山本は何冊もの、簿記の本を買ってきて研究した。そうして工業簿記の原価計算ということが理解できるようになり、独自の原価計算の方法や月計、週計、日計の方法を創り出していった。アシスタントのもり・まさき(真崎守)が分析力のある所から、もりと協力して伝票や集計表を作っていった。それにしたがって、生産費の管理、原価計算を行っていった。演出家が原価計算の方法まで、自ら創らねばならない、というのも、虫プロが、経営面で、異常に遅れていたという証拠になろう。
ともあれここに、虫プロが、複式簿記による計算で、計画的生産が初めて、おこなわれるようになったのである。然しそれは虫プロ全体の経理とは違ったものなので、ジャングル大帝の班だけの専用にするしかなかった。それが
虫プロの経理の体制と合わないため、経理とやりあう場面もあったという。
“いいものを 早く 安く 楽しく”
をモットーに、山本は制作に打ち込み、四月の初めには、第一話が完成し、オープニング・フィルムを、スポンサー筋に見せるまでに至った。手塚もそれを見て
「画調がすごくモダーンになっているんでね、こりゃ僕のジャングル大帝とは違うなーと思ったけど、考えてみりゃ、テレビのアニメと漫画は違うんだし、あれでいいんじゃないか。自信を持ってやってください」とご機嫌だった。
昭和四〇年八月にスポンサーも決まった。カラーテレビの生産に進出した三洋電気、テレビ局はフジテレビ、一〇月六日の水曜午後七時から放映と決定した。「W3」もロッテがスポンサーとなり、六月からフジテレビ放送と決まった。
そして、「ジャングル大帝」はPTA全国協議会第一回推薦番組に決定した。その他多くの推薦を受けるに至る。
版権収入も着々のびて大ヒットの「鉄腕アトム」に迫る勢いであった。海外売りもアメリカの三大ネットワークの一つ、NBCにセールスが成功し、八月末に手塚と穴見が渡米していった。
視聴率も悪くなかった。第一話が21.7パーセント、以後21パーセントを上下していた。20パーセントを越えればヒット番組である。「鉄腕アトム」程の勢いはなかったが、手塚が制作に参加して無い事を思うと、まずまずの成績だった。
こうして放映が始まったが、次第に世評は上昇した。昭和四一年一月、テレビ記者会賞を受賞。三月には厚生省のテレビ映画優秀作品ベストテン第一位になり、五月には、厚生大臣児童福祉文化賞を受けるに至った。
こうして「鉄腕アトム」放送開始から、三年半の歳月がたった。その頃、テレビアニメは毎週一〇番組が放送さるにいたっていた。その内訳は、虫プロ、東映動画、TCJに三社が各二本、東京ムービー、Pプロ、日放映、チルドレンス・コーナーが各一という内訳になった。虫プロの二本は「鉄腕アトム」と「ジャングル大帝」で、「W3」は六月で終わっていた。「鉄腕アトム」は三年半という歳月を経て、陰りが見え初め、40パーセントを超えた視聴率も、27,8パーセントにまで落ちていた。
かわって、トップに立ったのは、ナンセンス・ギャグの流行の勢いに乗った、藤子不二雄原作、東京ムービー制作の「オバケのQ太郎』で、35パーセント超える視聴率を得ていた。「ジャングル大帝」は平均24パーセントで、健闘した。
虫プロの経営者は、「ジャングル大帝」の劇場用映画作成を企画したが、担当したプロジューサーの坂本が、意気込みすぎたのか、なかなか進行しなった。そのうちに映画の封切り予定日が迫ったので、山本がテレビ版「ジャングル大帝」を何本か纏めて、構成して、急遽映画版を作った。七月東宝系で封切られたが、大評判というほどにはならなかった。それでも次の年のベニス国際映画祭に出品され、サンマルコ銀獅子賞を受賞した。

子会社虫プロ商事の設立

「鉄腕アトム」の放映は、その一二月で、丸四年目を迎えようとしていた。それで、虫プロはさらに一つの転機を迎えようとしていた。「鉄腕アトム」はその年いっぱいで終了が決まった。かわって「悟空の大冒険」と「リボンの騎士」の二本が、準備されつつあった。
前者は手塚の漫画「ぼくの孫悟空」を原作に、チーフ・ディレクターに、杉井儀三郎、プロヂュウサーに、虫プロ最古さんの制作進行係であった、川端栄一が当たり、発足させたものである。後者は同名の手塚の漫画を原作に、これは手塚がチーフ、ディレクターとなり、プロデューサーには、東映から来た渡辺忠美が担当と決められた。
川畑と渡辺の二人のプロデューサーには、「ジャングル大帝」制作で行われたような、予算管理方式による制作が、穴見常務から厳命されていた。「ジャングル大帝」では穴見の指示した予算枠内での制作が、山本の努力により、ほぼ実現できていた。このことが穴見に強い自信をあたえた。それで予算管理方式を一層強化しようというのである。
それと同時に、経理部には、帳簿や伝票のシステムを改良し、従来のドンブリ勘定方式を排して、迅速に原価計算が出来る、複式簿記による管理方式に切り替えることを命じた。事業発足五年たって初めて、近代的経理方式に切り替えようとするのである。あまりに遅きに失したというべきであろう。
それでも穴見は、
「プロデューサー・システムと管理機構が育てば、よい作品が健全な財政の中で生み出されるようになる。そうなってはじめて、虫プロの事業体としての基盤がしっかりして、アニメ文化形成に、リーダーシップを発揮できる」
と周囲に説いて回った、という。同時に彼は新しい酒は新しい革袋に盛らねばならない、という言葉を引いて、虫プロの新スタジオの建設を主張してやまなかった。
虫プロの社員は今や、400人を超えて、彼らを収容するスタジオも、手塚の私邸内の第一スタジオではとっくの昔に、足りなくなり、近所の土地を借りて第二スタジオを建てて、まだ足りず、第三、第四、第五スタジオと富士見台のあちこちに分散して存在していたし、その他に、池袋に版権部、渋谷に営業部と、諸方に虫プロは分散している現状だった。これらを一か所に集めって機能的なスタジオを造ろうという計画を、穴見は立てていた。用地も、東急が開発中の多摩ニュータウンに決めた。
それらの実行には、多額の金がかかる。
そのためにも創立からの赤字体質から脱却しなければならないと穴見は、説いて回った。
テレビ局からの制作費の中で、アニメをつくっていかないと、虫プロは真に、儲けることはできない。ジャングル大帝は、一応、予算管理で作る道筋を付けたが、局からくる製作費の中で制作出来たわけではない。一本あたりに250万円で作ったが、それはテレビ局からの制作費と、マーチャンダイジングや輸出で得た収益で補填した数字なのである。
テレビ局からくる製作費の中で、制作して、海外売りやマーチャンダイジングの収入があれば、それがまるまる利益になるようにするべきだ。マーチャンダイジングや、海外売りは恒常的にあるものではないし、その額も予想できるもではないので、それに頼っては危険だ。以上のように穴見は説いて回った。こういう考え方は、事業をする者にとっては、ごく当たり前の事柄だが、それまでの虫プロのスタッフの頭にはなかった問題である。
これまでは海外売りや、マーチャンダイジングで、運よく莫大な収入を得て来たので、制作費が増大しても、赤字は何とか補填できるという安易な考えが、浸みついてしまったわけである。
そこで、その年の九月、虫プロの独立採算を維持する考えが浸透するようにと考え、虫プロという会社から、版権部、出版部、営業部を切り離し、「虫プロ商事」という別な子会社とし、虫プロは制作部門だけの会社にした。こうして虫プロは、テレビ局から払われる制作費だけで採算をとるようにしたわけである。マーチャンダイズの版権料や海外売りの収入を、虫プロ商事に入金して、温存し、これをもっと有効に使おうというのであった。こうして虫プロの赤字体質からの脱却を図ったわけだ。虫プロ商事は今井専務を社長にして、池袋に事務所を開いた。   
これらの施策は穴見の主導で、展開したので穴見体制と社内では呼んだ。
手塚は特に反対はしなかったようだが、このような会社に組織にしてしまって、虫プロが持っていた最大の長所であった、「作家精神」の衰退により、今後つくられる作品の質について、危惧したようだ。
だが、冷静な第三者の目から見れば、この方策は、はなはだ危険を孕んだものと見なければならなかった。組織というものは、一つできれば、その組織は、それが生み出された事情を離れて、勝手に動いて行くものである。そのことを頭に入れているものが、虫プロには、誰もいなかった。はたして虫プロ商事が、虫プロの繁栄に反した事業を、勝手に始めたりして、虫プロの存立を脅かしていくのである。このことは後章で述べることになろう。

 恐るべき背任
ところで、二社に会社の分離が行われて、間もなく、つまりその年の一二月、残業をしていた、穴見がスタジオで夜食を食いながら、急病で倒れ、そのまま亡くなるという惨事がおきた。病名は「クモ膜下出血」であった。
日本で最初のテレビアニメ「鉄腕アトム」の創始に奮闘した穴見が、それから丸四年「鉄腕アトム」が放送を終了した、昭和四一年一二月、時を同じくして生涯を閉じた。享年四二歳の若さであった。
手塚は、穴見の葬儀を虫プロの社葬にした。そして穴見の改革した構想をそのまま続けることにして、スタッフたちの不安を解消した。ただし新スタジオ建設計画は、見送りとなった。

その、穴見の急死のショックがまだ消えぬうちに、穴見の犯した大事件が発覚したのである。その事件を『日本アニメーション映画史』(山口且・渡辺泰共著、有分社 一九七七年)によって、述べてみよう・
穴見の死後、その居室の整理にあたっていた虫プロの社員が、とんでもないものを発見した。
それは虫プロの誰も知らないうちに作られた、フジテレビとの契約書であった。その契約書には、虫プロの社長以下重役の判が押され、全く合法的に完全なものであった。
その契約の内容というのは、虫プロがフジテレビから1億3千388万円の金を借入する代償に、虫プロの全フィルム資産をテレビ局に譲渡するという内容であった。なぜそのようなことが、穴見一人で出来たかというと、虫プロと、虫プロ商事とに分離するにあたって、新会社の登記のために、穴見が、虫プロの役員、つまり手塚を始め、手塚の家族で、役員をしていた人の印鑑、他の役員の印鑑を、全部穴見が預かっていた時期があった。その間に、その印鑑を使い、秘密裏にフジテレビとの契約書が作成されたのであった。
手塚をはじめ役員一同青くなって、フジテレビに契約書破棄の交渉に行った。局の方でも
「手塚先生もご存知なかったのですか」
と驚く始末だった。それからあれこれ交渉し、やっとフィルムの所有権は取り戻すことができた。しかし向こう一〇年間、放映権はフジテレビが占有するということで、やっと決着がついた。昭和五三年になって、フジテレビの占有はやっと終了した。
この事件は、まったく穴見の背任であった。なぜ穴見が、そんな背任を犯したのか、今日なお不明である。
手塚はその著書、『ぼくのマンガ道』(平成20年 新日本出版社)の中で、この事件について
「人を信じろ、しかし、人を信じるな」
ということを、深く胸に刻んだ、と述べている。(続く)

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