書斎の漂着本 (92) 蚤野久蔵 日米會話必携
敗戦直後の混乱の中で文字通り<飛ぶように売れた本>は占領軍兵士たちとの「会話手引書」だった。旺文社の『日米會話必携』もそのなかの一冊である。こちらは父の所蔵していた改訂版で、昭和20年に発刊したのを25年10月に「普及版」として出版している。
陸軍士官学校を出た父は職業軍人として旧満州から南方=トラック島守備隊に転属となったが幸いにして大きな戦闘に巻き込まれることなく無事、妻の実家のある広島に復員した。ところが公職追放で公務員などにはなれず、原爆で焼け野原となった広島での需要を見込んだ材木屋の仕事にようやくありついた。たしか「M木材」という名前の零細会社で、中国山地のあちこちへ出掛け、仕入れた丸太をトラックに積み込んで広島市内に運び、製材、乾燥して販売していた。戦前は大本営や帝国議会が臨時に移されるなど「軍都」として大きく発展した広島の復興は、他都市に比べ遅く、バラックなども含め需要が一巡したのと仕入れ価格の急上昇などで会社は資金繰りに苦労し廃業に追い込まれたと聞いている。
山口県岩国市の旧日本海軍の航空基地跡に在日米軍の岩国基地が設置された影響もあり、広島市を訪れるアメリカ兵の姿も多かったが、父が彼ら相手の商売を始めるとか通訳などに転じる気もなかっただろうから、この本を購入したのは、単に「流行に乗り遅れまいとしただけ」だったのではなかろうか。というのも本全体には経年変化による相応の日焼けや色褪せなどはあるものの繰り返してページをめくったような<使用感>は見られない。いくつか残る赤鉛筆による下線も
どう致しまして、少しでもお役に立って嬉しいです→Not at all. I am only too glad to have been of some help (or service) to you.
私の言うことがお解りですか→Do you get me now? (米語)
聞きとれますか→Can you follow me?
憲兵→M.P(Military police)
米兵→G.I(Government Issue)
など十数カ所に引かれているだけで、会話に役立ったとは思えない。もっともいまふうのブロークンな会話にはこんな表現は使わないよ、というご意見もあるだろうが、そこはご寛容に願いたい。とどのつまりは長く本棚の奥に眠っていたわけである。
あらためて詳細にみると「普及版」とあるから表紙カバーはなかったか。全264ページで定価100円、下に見慣れない「地方定価105円迄」とあるから、北海道や九州など東京からの送料のかさむ地域は105円のところもあったのだろうか。著者はJ.A.サージェント、J.B.ハリス、須藤兼吉の3名で、人名事典などで調べたところサージェントはイギリス・ランカスター出身でケンブリッジ大学を卒業後、広島の江田島海軍兵学校の英語講師として来日していた人物。ハリスは日本名を平柳秀夫といい兵庫県・神戸出身で新聞記者だったイギリス人の父と日本人の母との間に生まれた。横浜で関東大震災に遭い、父の転勤に伴いアメリカ・ハリウッドで少年時代を送ったが父の死で横浜に戻り、英字紙の給仕から苦労して記者に昇進した。太平洋戦争が始まると外国人収容所に一時拘束されたものの、釈放後は日本人として徴兵されて戦地に行った。もうひとりの須藤は東京商船学校の教授で海洋文学に造詣が深く、詩人でもあった。戦後は旺文社の顧問をつとめ、昭和24年に新制大学となった玉川大学で初代の英米文学科教授に就任した。英語・英文学の権威で専門は古代ウエイルズの封建制度というから米語より英語に明るかったのではなかろうか。
余談ながらハリスはすべての出版物の著者名を「J.B.ハリス」で通している。昭和61年に同じ旺文社から『ぼくは日本兵だった』という自叙伝を出版しているが、訳者がいることからすると著作はすべて英語だったか。著者は創業者で社主の赤尾好夫。昭和6年に欧文社の名前で創業したが「欧」の字を軍部から敵性語とみなされて旺文社に改名させられたエピソードは有名である。私も高校時代に購読していた『螢雪時代』や、ポケットサイズで「赤尾の豆単」と呼ばれた『英語基本単語集』にお世話になったからなつかしい。
当時の旺文社の雰囲気が伝わる奥付の「讀者へ」を紹介しておこう。
出版事業の使命は文化の向上と普及にあります。新しい文化国家建設についての出版の重要性を認識する吾々は、此の社の微力をあげて、良き本の刊行に努力します。尤もらしい言論出版が自由の名の下に横行しています。何人も言う事は易くして行うことは難い。敢て吾々は言う事を少なくして真価を讀者の批判に俟(ま)ちます。道義というものを諸賢が高く評価されることを信じ、かかる観点に立っての審判こそ吾々は絶対視します。人、社各々主張があり主義があり方針があります。吾々は一切の小手先の手段を排し、ひたむきに真価あるものの提供に此の社の総力を結集しその命運を賭します。真価を御認めの上は切に御支援御鞭撻を懇請する次第であります。
まさに<赤尾節>であり、「教育産業の雄」をめざしたその心意気が伝わる。
「讀者へ」は他の出版物にもそのままの文章で使われただろうが「尤もらしい言論出版が自由の名の下に横行しています」というのは、同じようなことが日米会話本のジャンルでも、ということだろう。<戦後出版界の神話>とまでいわれる昭和20年発行開始の誠文堂新光社の『日米會話手帖』は昭和56年に黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』が出現するまで総発行数360万部という未曽有の記録を作り「戦後最大のベストセラー」といわれた。創業社長の小川菊松が旅行先で「天皇陛下の重大発表」を聞いて終戦を知り、東京へ帰る列車の中で出版を思いついたとされる。会社に戻るとさっそく社員に命じて作らせた日本語の例文を東大の大学院生にわずか3日の徹夜作業で英訳させたという。32ページの小冊子にもかかわらず、軍関係の印刷を引き受けて大量の用紙在庫があり東京大空襲でも焼け残った大日本印刷に持ち込んだのが功を奏した。
ちなみにいつも使っている古書ネット「日本の古本屋」を検索すると発行年を昭和20年から22年までに絞ってもあるわあるわ。『ポケット米日会話』(愛育社)、『ハンドブック日米会話』(朝日新聞社)、『日米会話の手引』(松陽書房)、『誰ニモスグ役立ツ速成日米会話』(金園社)、『英語略語辞典』(産業図書)、『自習英語の学び方』(荻原星文館)・・・某古書店が出品している『新版日米會話手引』(新生相互研究所)の商品説明には「B5判、二つ折り、少シミ、少インクシミ、ツカレ有、表紙には「進駐軍兵士トノ接触ハ円滑ニ!コノ表サヘアレバ誰デモ兵士ト簡単ニ話ガ出来ル」とある。加えて「四分の一サイズに折り畳まれた跡が見られるため旧蔵者は進駐軍兵士との接触に備え、本品をポケットに忍ばせていたのだろうか」とこれまた懇切丁寧な解説までついている。こういった本の性格上、傷んだり、用済み後はそのまま捨てられただろうから古書としてはほとんど残っていないようで価格はいまや5千円超となかなかの<貴重品>ではありました。