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私の手塚治虫  最終章   峯島正行

私の手塚治虫(終章)
峯島正行
小林一三の恩恵

手塚構想力の背景

思想家・鶴見俊輔は、その著、『漫画の戦後思想』(昭和四八年 文藝春秋)の「都市」という手塚治虫を論じた章の冒頭で「大正の末年に生れて宝塚で育ったという事実が、手塚治虫の構想力の背景をなしている」と述べている。
この文章の手塚は、大正末年生まれとされているが、これは昭和初年と訂正されなければならない。当時、手塚は大正一五年生まれと誤報され、それをあえて訂正しなかったために、それが世間にとおってしまった。事実は昭和三年生まれであることが、世間に知れたのは、亡くなった後のことである。だから、鶴見の文章が間違いだとは言えない。大事なのは、その後の言葉だ。
鶴見は、関西の私鉄の事業家は、一種のユートピア構想を持っていたとし、「中でも小林一三は、慶応義塾出身で、福沢諭吉の町人道を生かそうという志を持ち、(中略)私鉄阪急の経営に乗り出してから、彼は大阪の起点に百貨店を作り、終点の宝塚には大衆娯楽センターをつくることを考えた。先ず温泉ホテルをつくってから、そこに泊り客に見せるための少女歌劇を工夫し、自分で脚本を書いて、興行をはじめた。やがて、俳優を養成するための学校をつくり、それは寄宿制度の学校で、終点宝塚に置かれた」と、宝塚の生立ちを簡略に述べている。当時は少年少女の交際が自由でなく、親や教師の監視が厳しかった。それが宝塚ならば、同じ年頃の少女のしている芝居であるから、親たちも心配せずに、宝塚の歌劇を見ることを許した。
そこで娘たちは、同年輩の少女が男役と女役に扮して、はなやかな人生を演じるのをみた。普段見ている父親や兄弟の粗野な男と違って、女性が作り出す理想の男性を見て楽しむことができた。だから、現実の日常生活から逃避するという側面を持っている。
鶴見は、宝塚は、女形の演技が現実逃避の夢をもたらす歌舞伎と同様に、現実逃避の機会を売るという産業を開発し、それを維持したところに、小林一三の独創性があったという。温泉の附属的存在から離れて、宝塚独自の世界を築き上げたことは事実だ。
「『モン・パリ、わがパリ』、『私の夢の都マンハッタン、ブロードウエイ』というようにヨーロッパ、アメリカを謳いあげた出し物も多く、それらの歌のかけらとともに、西洋近代の理想が、手塚少年の心に住みついて、後に来る軍国主義時代にも変わることがなかった。
このユートピアの設計者小林一三が、彼の日本国家改造計画をひっさげて東京に乗り込み、国粋主義と格闘したころ、その影響をうけた手塚治虫は中学校の片隅で、彼なりに時流とたたかいつづけた」(前掲書)と書いている。
間接的に、であろうが、鶴見流にいうなれば、手塚治虫という人間形成に、最も影響を与えたのは、小林一三ということになる。

小林一三の手のぬくもり

私はこの小林一三という、日本資本主義史上稀にみる傑出した人物に会ったことがある。随分と昔の話で恐縮だが、たしか昭和二七、八年ごろのことである。
その頃、私は「実業之日本」という雑誌の新米の編集者であった。ある日、山田勝人編集局長が、編集部員に向かって、「明日の朝、東宝の小林一三を訪ねることになったが、誰か一緒に行きたい奴がいるか。尾崎(八十八助編集長)君も同行するが、もう一人くらいならいいだろうから」と大声を上げた。小林一三は阪急電鉄、東宝などの創業社長で、大物財界人である。私はすぐに手を挙げた。
「よし、ほかに希望者はいないか、よしそれじゃ峯島来い」

当時、映画が好きだった私は、東宝という会社に興味を持っていた。その前身をPCLといったが、そのころから映画界で最新の設備を誇り、後進の会社にもかかわらず、長谷川一夫、大河内伝次郎、山田五十鈴、入江たか子等の大スターを他社から引き抜き、いろいろ注目された。山本嘉次郎、衣笠貞之助、島津保次郎等の名監督を入社させ、話題作を提供し、戦時中は、東宝映画と名前を変え、その技術で「ハワイマレー沖海戦」を制作、特殊撮影を完成させ、また、黒沢明という世界的名監督を育てた。
戦後は、東宝争議という日本の労働運動史上に残る大闘争が行われ、その鎮圧にGHQの軍隊まで動員した。その為スターが皆離散、荒れ果てた撮影所だけを残して、ようやく収まった。
だが何事もなかったように見事に復活を遂げた映画会社、その実質経営者に会って見たかった。
もう一つ、私の勤務する会社では、「少女の友」という古い少女雑誌を刊行していた。その編集部の人たちは常に宝塚を話題の中心において、編集している姿に接していた。
仕事関係で日比谷付近を歩くと、東京宝塚劇場の周辺には、常に女学生達がたむろしていた。「少女の友」の編集部が宝塚を追いかけるのは当然だと思い、「宝塚とは何だろう」と日ごろ思っていた。その面からもその創始者であり、今日まで発展させた小林一三に関心を持っていた。それで一も二もなく、山田の誘いに応じたのであった。
ついでながら付け加えると、その頃「少女の友」には手塚治虫が何回か執筆している。

「小林邸に行く者は、明朝、八時一〇分前、都電某停留所前に集合」ということになった。当時実業家は、朝の仕事前に、ジャーナリスト等に会う人が多かった。
その日は、早めに下宿に帰った。ただ天候の具合が心配だった。夕刊を見ると大雪の情報が出ていた。翌朝、六時半ごろ目が覚めて、直ちに雨戸をくくると、はたして、庭に一〇センチほどの雪が積もっていた。当時は、雪が積もると、国鉄、私鉄、都電を含めて、電車やバスが、運航を停止することが多く、大雪により全都交通途絶の状態になることもしばしばであった。タクシーも普及せず、あっても雪の中を走ることはなかった。それに、公衆電話は極めて少なく、電話のある個人の家というものは稀であった。だから役所も、会社も、機能停止状態になってしまうのだった。
その朝、私はまず、電車が遅れ、遅刻して、編集局長に怒鳴られるのをまず恐れた。ニューギニア、ガダルカナル戦線生き残りの元軍曹、山田の大きな顔が、眼先にチラついた。私はゴム長をはいて、ともかく家を出た。下宿は世田谷、小田急の経堂であった。経堂には、車庫があったせいだろうか、私が駅に着くと、新宿行きの臨時電車が出るところだった。やっと飛び乗ったが、雪のため電車は超のろのろ運転。新宿に着いた時は、約束の時間も迫っていた。
都電の停留所に駆けつけたが、これも間引き運転の、のろのろ電車だ。やっと三〇分ほど遅れて約束の場所についたが、山田も尾崎もカメラマンもいなかった。後で叱られるのはいいとして、これからどうするか。とにかく、小林邸に行ってみることにした。玄関は閑散としていた。ベルを押すと、玄関の大きな障子が開いて出てきたのは、写真だけで知っている一三氏の長男で、当時東宝社長の米三氏だったので、吃驚して声も出なかった。ご本人の白髪の一三氏が、後ろに立っている。立ち竦む私を招き入れながら、一三氏が
「実業之日本の人か」と聞く。「はい」と答えると、
「雪の中をよく来た、寒かったろう、さあ上がれ、あがれ」
と手を取って、部屋へ案内してくれた。山田も、尾崎も来ていなかったのだ。部屋の中では,赤々とスト-ブの火が燃えていた。
「約束の時間を遅れまして」
と頭を下げると、一三氏は真っ白な白髪の頭をあげて、じっと私を見つめた。鋭い目つきと定評のある瞳が、揺れ動いた。それは、清く正しく美しくという、言わば、歯の浮くような言葉を本気に自分のものとして、多くのスターたちを何十年かけて育て上げた男の、厳しさをあえて抑えた目の色だったのかも知れない。
それから何を話したか、仔細は、今は忘れた。しばらくして、とにかく他日、山田、尾崎と尋ねることにして、また玄関まで送られて、社に向かったと思う。
次に会ったのは、季節がやや緩んだ早春の一日、尾崎編集長と大阪郊外の池田の自宅を訪れた時であった。今その家は池田文庫になっているが、静謐で趣のある家だったが、普通の住宅とは変わりない大きさだった。その時も鬼の経営者が、温和な老爺となって、宝塚の生徒たちの自慢話をされた。自宅で作られた暖かい昼食をごちそうになりながら、「嫁を貰うなら絶対宝塚の娘がいいぞ、清く正しく美しくというのは、お題目ではない。私は本気に、そういう娘を育てているのだ、」というような話をされたように記憶する。
私は独身だったが、華やかな宝塚の少女歌劇の女性など雲の上の存在と考えたりしながら、その話を聞いていたように思う。
付け加えると、山田と尾崎は、小林に親しい経済人、文化人との連載対談の企画があり、そのた打ち合わせのために、小林を訪ねたわけであった。小林がすぐに承諾し、実現することになった。雑誌で連載され、それが「小林一三対談一二題」という本にまとまって、昭和三〇年実業之日本社から刊行された。

「阪急沿線」という文化

それはともあれ、「私の手塚」を書くことになった時、すぐに、思い出したのは、この時の小林一三の事であった。手塚と小林とは、私には、二つの面から考えて、大きな関係があったと思える。
第一は、手塚は、小林が作った世界、文化的環境の中で、生まれ、成人し、仕事をし、成果を上げたということである。
第二は、やろうと決意をして手を付けた仕事は独特のアイデアを生かして、何が何でもやり抜くという、仕事の仕方が、両者に共通している。二人とも、とても一人の仕事とは思えぬ巨大で、膨大な仕事をし遂げたが、その方法に共通項があるように思えてならないのである。
鶴見俊輔に倣うようであるが、あの一見優しい穏やかな白髪の小柄な老人が、知らずして手塚治虫という、世界に冠たる英才を作り上げたことになるのではないかと思う。

小林を敬愛し、『「わが小林一三」――清く正しく美しく――』という小説を書いた芥川賞作家、阪田寛夫は、同作品の中で、「人文的世界・阪急沿線」という概念を打ち出している。そしてそれを作ったのが、小林一三だというのである。阪急沿線地域について次のように書いている。
「阪急神戸線の西宮北口あたりから六甲山系沿いに神戸の東の入り口まで、また西宮北口まで戻って直角に同じ六甲山脈を今津線で東の起点宝塚の谷まで、そして宝塚から宝塚線で北摂の山沿いに大阪に向かって花屋敷から池田、豊中辺りまで、その線路より主として山側の、原野であった赤松林と花崗岩質の白い山肌、川筋に、まるで花壇や小公園や、時には箱庭をそのまま植え込んだような住宅街が、ある雰囲気を以って地表をしっとり蔽っていた。いまから四〇年前のことである。
すべて山の斜面に面しており、中でも西宮―神戸間は海から山へせり上がってゆく狭い傾斜地を、一番海に近い家並みに沿って阪神電車、すぐその上を阪神国道電鉄(今日の阪神電鉄)、もう一段上を官鉄(今日のJR)一番山手を阪急電車が並んで走っていたのだが、一番上の線路のなお上に大正以来造られた住宅街は、山際をかすめて、大阪神戸間を二五分で駆けぬけた小豆色で統一された電車の姿や機能と相俟って、長い長い立体的で緑色の休息地――これまでの日本にはなかった、宙に浮かんでいる匂いのいい世界を、この地上に形作ってきたように思われる。昭和でいえば十年代半ばごろまで、……おそらく日本国中どこにも、これほど自然と人工の粒のそろった美しい住宅街はない」(阪田寛夫 わが小林十三)
著者の阪田は、少年時代のある日のたそがれ時、赤松の香りにむせぶような、その街の一画に立って、感傷に身を包まれ、洋風赤屋根の家の瓦や壁が紫色に染まっていくのを眺める。谷間や丘の上の家々に灯がともり、その窓ガラスの内側には、どうしてもスリッパをはいた聡明そうな美しい少女が憂い顔をして、立つていると信じざるを得なくなるのであった。蔦や薔薇の絡みついた家々に住む人には高貴な精神が、息づいているような感覚に襲われるのであった。
そこに住む人は、彼の想像するところ、衣食を大阪より神戸の外人街に依存し、令嬢や令夫人たちは、そこで手練れの職人の手になる外套を着、パンやチーズはトーアロードのドイツ食品店で求める……そんな感傷的な空想にふける少年の耳朶に強く響くのは、その美麗な住宅街の坂下の駅舎の周囲に咲く桜の花を吹き飛ばして、突っ走る、海老茶色の鋼鉄製の特急電車が発する鋭い轟音であった。
梅田駅を発車する流線形でもなんでもない海老茶色の車両が、二本に一本は特急となり、どの特急も西宮北口で前の普通電車に追いつき、三宮まで二五分で走るのだから、実に実用的だが、夢を追う少年阪田には、物足りないくらいであった。
この素敵な電車と共に、宝塚があった。
阪田は次のように書く。
「昭和一五年まで少女歌劇と呼ばれていた宝塚レビューは、これまた大阪育ちの私などにとっては「阪急沿線」と分けることのできない一つの世界の別な呼び方のようなものであった。花崗岩質の六甲と北摂の山塊との境界を流れてきた武庫川が大阪平野へ出る場所にたしかに宝塚という明治生まれの温泉地があった。その対岸に箕面有馬電気軌動線(阪急の前身)が、明治末から大正の初めにかけて建設した『新温泉』の建物のなかで、女ばかりの『学校』が『歌劇』の余興を続けているうちに、主客が転倒して少女歌劇の方が有名になってしまったには違いないのだが、この美酒に一度でも酔った人にとっては、それは形の無い香しい雰囲気のようなものであった。
……西宮北口にプラットフォームに降り立つと、山から吹き渡る風の匂いがまるで違って爽やかだった。たちまち私たちは精神の平衡を失った。プラットフォームに袴をはいた若い女性がいたとすれば、誰もが宝塚の生徒かと疑われた。男役の人たちは短く髪を刈り上げ,七三に分けたり、オールバッグにしたのを、ポマードで押さえつけていたからすぐ分ったが、娘役は普通の女の人と区別はつかなかったというより、この電車に乗る女の人は、身も魂も美しいという信仰がこちらの胸に最初からあって、その象徴が宝塚の生徒なのであった」(前掲書)
この作家の「阪急沿線」に対するほれ込みようは、それこそ信仰と化しているようにさえ思える。なお著者は続ける。
「……今津線の宝塚線に乗り換えて、三つ目の下車駅に来ると、(中略)このレールの先の同じ平面に、宝塚という匂いのいい世界が実在することがほとんど信じられないほどであった。それでいて、駅を出て丸い白みがかった石でしっかり土手を固めた水の無い川に沿い、松の枝の間から、時々赤い屋根の見える住宅街や、高台の果樹園や、まだ家の建たない広い松林だのは、すなわち宝塚の舞台装置であり、もう始まっているオ―ケストラの音合わせの響きなのであった」(前掲書)

宝塚の、この赤い屋根の住宅街に、手塚治虫が育った家があった。
だから、手塚は「阪急沿線文化」によって純粋培養された人間と言えるのだ。
先の阪田の表現を借りると、赤松林に四季だけがめぐってきた場所、ある日美しい住宅が生まれ、最初の種まき人である小林一三の意図を超え、おのずから美女の顔立ちをした住宅が育っていった。そこに住みついたのは妖精でも天女でもなく、具体的には大阪や神戸に仕事場を持つ人たちがその家族であった。その阪急沿線に生れた住宅街の住み手は、宝塚方面は部長、課長クラスであったという。
文学者らしい美化した表現であるが、この町は日本の資本主義社会が生んだ市民社会の人々の住み家であった。
東京にも田園調布や成城学園とか、近代的な住宅地が、昭和年代にできたが、これらは東急系電鉄を作り上げた五島慶太に招聘された小林一三の指導の下に出来たか、その真似であった。近代的な住宅地は、最初は小林一三が、阪急沿線に創造したものである。

手塚家の系譜

手塚治虫が五歳の年、住友金属の社員だった父の手塚粲(ゆたか)は、西宮から宝塚に引越した。大阪で、住友の社員と言えば、それだけでエリートであった。東京で三井、三菱の社員というのとはちょっと違ったニュアンスがあったようである。これは私が財界記者の頃、住友系の人と交わり会得した感覚である。
治虫の祖父太郎は、関西大学創立者の一人で、長崎控訴院長を務めた法律家であった。治虫の曽祖父は緒方洪庵の適塾出身の伊達藩藩医だったという名門の家柄、新しき阪急住宅に住むにふさわしい系譜であった。
だから手塚は、典型的な阪急沿線文化の先端的担い手の家に育ったわけで、そういう自己の育ちに、内心、強い矜恃をもっていたに違いがない。
手塚は、池田の池田師範付属小学校(現大阪教育大学付属小学校)というエリートの子弟がゆく小学校に通い、大阪の秀才校No1と言われた、府立北野中学に進学、さらに浪速高校を経て、大阪大学付属医学専門部を卒業するという秀才の道を進んでいった。

漫画家には、こういう育ちの人は殆どいない。地方の漫画好きの少年が、志を抱いて、上京して、苦労しながら画を出版社に持ち込みをやりながら、次第に認められて、世に出るといった、立志伝型の作家が多い。
例えば、加藤芳郎は、都庁の給仕をしながら、漫画を描きたくてたまらず、川端画学校の夜間部に通い、アサヒグラフその他の雑誌の投稿欄に投稿するということから、漫画家への歩みを始めた。その川端画学校で、やはり漫画を投稿していた小島功と知り合い、お互い切磋琢磨しあうという仲になった。
小島は尾久の洋服屋の長男に生まれ、当然親の跡を継がなければならないのを、何とか親を説得して、漫画の投稿をしていた。
もっと若手の、秋竜山は伊豆の漁師の息子、漁師をやりながら、漁村の若者宿から、漫画の投稿することから始まった。
サトウサンペイや杉浦幸雄など裕福な育ちの人もいたが、それなりに、世に出るまで衣食には苦労した。
少年漫画でいえば、藤子不二雄の二人、安孫子素雄、藤本弘二人は、富山県から、上京し、今日有名になったトキワ荘に住みつき、漫画家を目指した。そのトキワ荘に、満州引揚者の赤塚不二夫、岩手から上京した石森章太郎、寺田ヒロオなどなどが住みつき、それぞれの道を開いて行ったことは今更、言うまでもないことだ。

手塚は漫画家となり、日本一の稼ぎ頭となっても、以上述べた阪急沿線住宅地の人の住人生活を崩さす、むしろそれをよりどころとしていたといえる。
手塚は、多くの連載漫画を抱え、多忙過ぎて、締め切りにおくれがちな手塚の行動に、つねに多くの編集者の目が光っていたことは前に縷々述べた通だが、手塚は「逃げの名人」と言われ、編集者の目を逃れ、消えていなくなることがままあった。マスコミのパーティーなどで手塚の周囲には編集者がたむろし、或いは監視の目を光らしていた。にも拘らず行方不明となるのだ。
先に紹介した石津嵐は、よく手塚がパーティーに出るとき、きっと抜け出てくるから、どこそこで待っていてくれ、二人だけでゆっくり、一杯やろうと言われた。そして必ず監視の目を逃れて約束の場所に現れた。
「どうやって、抜け出てくるのか分らないけど必ずやってきた」
と石津は語るが、そうして苦労して出てきて、大酒を食らい、女の子の尻でもさすって騒ぐといったことをするかと思いきや、手塚のすることは、
「たいしたことはないのさ、例えばバーの『数寄屋橋』の皮の禿げたような粗末なソファーに座ってさ、ウィスキーを一,二杯、舐めるくらいのことで帰ってしまう。酔っぱらったり、騒いだりしたことは一度もない。あれで息抜きになったんだろうか」
と石津はいう。寝る間もない忙しい手塚にとって、たとえ十分でも自由な時間が持てればよかったのだろうか。私が思うに、手塚の観念でいえば、それで銀座で飲んだくれた事になるのだろう。手塚の書いたものを見ると、よくそんな表現をしている。その実態は以上のようなものだったと思う。

彼の本当の休息とか慰藉は、やはり阪急沿線の紳士としてのそれであらねばならなかったのだ。それは赤い屋根の住宅の中、綺麗に片づけられた美しい部屋で、家族と団欒することにあった。すなわち小林十三が期せずにつくった阪急沿線の文化の中に浸ることが、最大のリクリエーションだったのである。今その家庭の一場面を紹介しよう。
手塚の妻悦子が書いた『手塚治虫の知られざる天才人生』(講談社文庫)という本の後書きを子供達が書いている。娘、千以子の文章に次の一節がある。
「父と母はとても仲の良い夫婦でした。居間で私がテレビを見ていると、その横で父が母の膝枕で耳掃除をしてもらっていたり、あるいはこたつの中で足の引っぱりあいをしていたり。また、テレビからワルツが流れてくると、父は母を誘って立ち上がり、ダンスを始めます。二人とも恋人同士のようにはしゃいでいるのを見ると
『とてもお見合いで結婚した夫婦に見えないぞ』と感じます。いつか結婚したら、自分もこんな夫婦になりたいなぁと、あこがれていました」
そうして、なにかのお祝いでもあると、手塚はバイオリンを弾き、ピアノを叩き、家族で合唱する……。
手塚の精神の慰藉、そして肉体の慰安はここにあったのだ。
しかも手塚は、この家庭内でも、子供たちを一個の独立した人間として扱い、上から親の権威を使って言うことをきかしたり、過剰な甘えをさせることはなかったと、長男真が講演の中で、語っていたのを思い出す。
手塚は、阪急沿線の紳士としての、典型を演じ、その中に、紳士としての威厳、自負、をもって生きていたのだ。

宝塚と共に育つ

宝塚の手塚家の住まいは歌劇長屋と通称された地域にあった。そこには宝塚歌劇のスターたちが住んでいたからだ。隣に天津乙女、雲野佳代子の姉妹が住み、母親が熱心な宝塚フアンであったため、この二人に可愛がられたことは既に述べた。治虫は、舌がまわらない頃、「歌劇ねえちゃん」と呼ぶところを「タヌキねえちゃん」と呼んで笑われたものだという。
つまり、三,四歳のころから、毎月のように母親に連れられて、宝塚大劇場に行った。
長じてからも、手塚は宝塚を日常的に観ていたようだ。
講談社の漫画全集281 新宝島 に「ぼくのデビュー日記」と称して、大阪大学医専の学生だった昭和二一,二年の日記が併載されているが、それを読むとその一八,九歳の頃、宝塚大劇上に、よく見物に行ったことが、わかる。
例えば昭和二一年六月八日に「ヅカへ行った。割合良い席であったが、歌劇はあまり良くなかった」
とあり、六月二七日には「朝五時から新温泉の行列に立たされて、友達の義理と言いながら……」とあり、著者の注がついている。それには、当時宝塚劇場はよい席をとるため早朝から入り口に行列する。私は宝塚に住むものだからその役を仰せつかったとある。
また「母、美奈子(妹)と歌劇に行く」という文字も散見される。
またその頃すでに宝塚歌劇の機関誌、ファン雑誌「歌劇」「宝塚グラフ」などに、漫画を連載していたのだから驚く。
前述の日記に、その件についての記述が散見される。
昭和二二年三月二九日「本日、「歌劇」発売、小生の漫画が綺麗に出ていた。
五月一一日「一日中宝塚グラフの原稿」
五月一五日「歌劇事務所に拠ったら先日の漫画が気に入られたそうである」
このような記述が、随所にある。ということは、幼児の頃から成人するまで、宝塚歌劇にどっぷりつかり、そこから栄養を吸収してきたということであろう。それが漫画を描くようになって、文字どおり、鶴見俊輔の言う「想像力」の背景に成ったことは確かである。

宝塚の歌劇というものは、歌劇とは言いながら、全く西洋の「オペラ」とは別物で、全くの宝塚、小林一三の創造物である。
そのストーリーは、日本で言ったら、神話から、源氏物語から、中世、江戸時代をへて、近代文学に到るまで、最近では「ベルサイユのばら」のよう舞台で、西欧の楽器による音楽にのせて演技者が、歌とセリフにのせて、ものがたりを進展させてゆく。しかもその演技者は、しっかりと訓練された若い女性ばかり、男性役も老人役も若い女性が演ずるという歌舞伎と正反対の役作りで、演じられる。
勿論欧米の原作についても日本のそれとと同様、あらゆる舞台芸術、文芸作品からも、それも古典から現代作品までを、材料として、脚本をつくっていった。
これらのことは、長い年月をかけて、小林一三が、若いころ文学を志したという文才を生かし、自ら率先脚本を書き、後進の専門家を導いて創り出したものである。
しかも、レビューという、舞踊、歌謡による絢爛たる、舞台芸術を作り出し、興行のフィナーレを飾るという方式まで、独創したのである。
筆者は、この本書の原稿執筆中、たまたま初演時の「ベルサイユのばら」のマリー・アントワネット役を演じられた、宝塚月組のプリマドンナだった、初風諄さんに知己を得たのを幸い、宝塚東京公演の二,三をご一緒させていただいた。初風さんのお陰で、その組のトップスターに会うこともできた。
そこで最初に感じたのは、男性の観客が思ったより多いということだった。勿論若い女性が圧倒的に多いには違いないが、男性が真剣に観劇していることにあらためて驚かされた。
そこで私は、日本の昨今の舞台芸術を考えると、リードしている集団は三つだと思えたのであった。一つは歌舞伎、一つは宝塚歌劇、一つは劇団四季のミュージカルではないか。その是非はともかく、宝塚は日本の最強の舞台芸術であることは確かだろう。
歌劇の舞台の面白さもさることながら、レビューの絢爛たる美しさも大変なものがある。
主役のスターが、舞台いっぱいに広がった階段を下りてくる華やかさ、そのスターが背負う羽飾りの大きさは尋常なものではない。
「あれは二〇キロもあるのです」
と、初風さんは言った。
この絢爛たる存在が、肥料となり、栄養となり、手塚のあの芳醇な漫画を生んでいったのだろう。
春日野八千代、越路吹雪、久慈あさみ、有馬稲子、淡島千景、月丘夢路、乙羽信子、轟夕起子、霧立のぼる、小夜福子、宮城千賀子、葦原邦子、寿美花代と、思い出すまま名前を並べただけでも、凄い顔ぶれだ。この人たちの舞台を、手塚は見つめたのだ。無数の彼女たちが作る舞台が、漫画を生む土壌とならぬはずはない。

手塚は、描きたい。描くことはいくらでもある。頼むから、仕事をさせてくれ。
手塚はそういって、あの虫プロが倒産し、何億の借金を背負いながら、あたかもなにごともなかったように、描き続け、漫画界第一人者の地位を微動だにも、させなかった。
昭和六年、発展途上にあった、宝塚大劇が火事になった。これで下手をすれば、せっかくファンを集めてきた、宝塚少女歌劇が、消えてなくなるピンチに立った。小林社長も焼けるおちる大劇を見つめていた。
だが箕面有馬電軌以来、阪急電鉄の急行化、住宅地の開発、少女歌劇と幾多の難関を乗り越えてきた小林は、わずか五二日間で、大劇場を再建させ、何事もなかったように、旧の如く少女歌劇を続けて行った。
或いは、戦後最大のストライキによって、目茶目茶になった東宝映画を、社長に復帰するや、たちまち復旧させ、何事もなかったように、旧に倍して繁栄をさせていった小林一三、その姿と、日本最初のテレビアニメ、アニメ映画を作った虫プロが無残な姿で倒産したにもかかわらず、借金取りが押し寄せる中で、平然と漫画を描き続け、ことが落着した後、何事もなかったように、一層漫画界における権威を増していった手塚と、その精神の強靭さにおいて通底、共通するものがあるように思えてならない。
それは手塚が、宝塚から学んだ、漫画のアイデアの出し方を持っていたこと、その腹の底には、あの美しい、阪急沿線の住宅地で培われた、端正で、力強い紳士の精神を持ち続けたことに拠ると私は確信する。

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