新・気まぐれ読書日記 (50) 石山文也 星の王子さま
「そうか、この連載も50回目となるのか」と、取り上げた本が並ぶ書棚を見ながらささやかな感慨にふけっている。前身となるミニコミ誌への連載は、読んだ本の中から毎回、何冊かを紹介するスタイルの『気まぐれ読書日記』を計65回続けた。『Web文源庫』に移ってからは「1回1冊」に変えたが、取り上げる本や書くペースは同じく<気まぐれ>にさせてもらうことで、タイトルはそのままに「新」だけを付けた。初回は探検家・角幡唯介の『空白の五マイル』(集英社)だったがそれからの6年半はあっという間だった。多く読むジャンルや作者を聞かれれば「雑読です」とはぐらかすものの、新刊が出れば必ず読む何人かはいるわけで彼もそのひとりである。かといって同じジャンルや作者に偏らないよう、なるべく幅広い選択を心がけている。節目の50回目はさてどの本にしようかと迷ったが、所詮は通過点にしか過ぎないと思い直し、読み終わったばかりの岩波文庫創刊90年にして初めて文庫化となったサン=テグジュペリ作『星の王子さま』にした。訳は<歴史的名訳>とされる内藤濯(あろう)。子息でノンフィクション作家だった内藤初穂が残した誕生秘話満載の「備忘録」エッセイやテクジュペリの略年譜が収録されているのもうれしい。
サン=テグジュペリ作『星の王子さま』(岩波文庫)
時々に本を整理してきたが「たしか書庫にあったはず」と探したら第54刷(1992年7月10日刊)の単行本が見つかった。外函の底に「小学6年、中学生以上」とあるが、子供のではなくどこかの古書店で入手したのだろうか。もちろんこちらも内藤濯訳である。
『星の王子さま』(1992年刊、第54刷)
「岩波少年文庫」として1962年11月27日に発行され、10年目の1972年9月30日に大型単行本の体裁になり現在も再版されているからロングセラーとしては実に半世紀以上、読者に愛され続けていることになる。単行本化に合わせてこの年の初夏に書かれた「訳者あとがき」が今回の文庫化でも同じく再録されている。
この高度の童話を書いた人は、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリというフランスの作家です。1900年6月29日、リオンに生まれ、1944年7月31日、フランスの飛行中隊長として、コルシカ島の沖合を偵察しているうちに、姿を消したといわれている人です。20歳の頃からはやくも、航空に異常な興味をもちはじめ、なん度ともなく危地におちいったのでしたが、そのたびごとに、ますます情熱を燃やしつづけたほどの人で、それだけに、作家としての地歩もまた、たしかなものになったのでした。「南方郵便機」(1928)、「夜間飛行」(1931)、「人間の土地」(1939)などと作がつづいたのでしたが、それらの作の基調はといえば、北アフリカをはじめ、インドシナや南アメリカへと、いわば息つくひまもなく機翼をのばした人のいきいきした体験です。積雲と積雲との間を縫って“知られた世界と不可知な世界との国境”を身命を賭して感じた人の呼吸です。はるかな上空から見下ろした人間の土地の実相です。ところで、そういう異常人であるサン=テグジュペリは、1942年、北アメリカの客となっていました。
長く引用したのは、この「異常人」という表現が気になったからでもある。内藤はテグジュペリの人生をいい意味で「常人を越える」と表現したのだろうが、この言葉はここ半世紀で「異常な人」という負のイメージに変ってしまった。
それはそれとして続きを要約紹介すると、ナチスドイツに占領されたフランスを逃れてアメリカに亡命したテグジュペリは祖国に残した友人たちの悲境を思うと胸が痛んだ。なかでも若い頃から心を許しあってきたユダヤ人の親友、レオン・ウェルトのことがいちばん気がかりで、彼のためにこの物語を書いた。人によっては、この物語を逃避の文学と言う。苦痛となっている当面の問題、つまり祖国の急には触れずに、いわば散文詩風な美しい形で物語の筋を運んでいるからだが、人知れず心の底に燃えている憂愁なり信念なり待望なりは、さまざまな象徴となって読む人の心に迫る。見落としてならぬことは、散文詩風な物語が、一応は童話らしく見えても、つきつめると、童話を越えた魅力をもっていること。これこそは作者が子供時代との自然なつながりを絶えず念頭に置いて、それを新鮮ないのちの糧とした人だったから。「私のふるさとは、私の子供時代である。ある一つの国が、私のふるさとであるように」と強く言い続けた作者だけに「心で見なければ、物事はよく見えない。肝腎なことは目に見えない」という人間生活のほんとうの美しさが書かれている。喉が渇いた王子が航空士と手に手をとって、井戸を探しに砂漠を歩いて行く場面こそはこの作の絶頂だと、この作を読みぬいている誰もが言う。
――砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ。
――家でも星でも砂漠でも、その美しいところは、目に見えないのさ。
かようにぴたりと呼吸の合った言葉のやりとりがきっかけになって、王子の姿はまるで湯煙りのように空へ消えて行く。そういう「目に見えぬ美しさ」こそは、この作の最後の結びで、私(=内藤)は「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と言って演能の美を浮き彫りにした世阿弥の卓見をしぜん思い出す。
内藤初穂の「『星の王子さま』備忘録」では父の濯がこの物語を訳したのは満70歳の春で、第一高等学校や東京商科大学(現一橋大学)で永くフランス語を教えてきたが、翻訳を引き受けるまでその本の存在すら知らなかったことが明かされる。それを英訳本で初めて注目したのが当時、「岩波少年文庫」の編集顧問だった児童文学作家で翻訳家の石井桃子。濯は一読するなり宿命の出会いを感じた。なかでも序文の結びの「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない」には身がすくんだ。さらに加えて、王子が試みる「星めぐり」を通しておとなの悪さもやんわりついている。その志の高さに言葉を失ったそうだ。原題は『ル・プチ・プランス(=小さな王子)』だが、濯は必ずしも王子のありようを写していないと感じて『星の王子さま』という新たな名を王子に与え、期せずしてロングセラーへの道を開いた。原作は数十ヶ国語に訳されているが原題を改めたのは日本語版だけである。当時は筆が持てないほど書痙(しょけい=手の震えや痛みを伴う病気)が進んでいたので、作業は口述筆記で行われ、出張筆記を担当したのが「岩波少年文庫」の編集員だった初穂の妻で毎週日曜日に行ったが原文のリズムを訳文に移す試行錯誤を重ねた。それは「日本語に砕くよりも、原文を活かし切る日本語を探して歩く、そう、散歩するような気持で、仕事に気が入りましたと話していた」と妻は回想している。たった一節一語をああでもないこうでもないとわずか一行に半日かかることも稀ではなかったという。
他にも多くのエピソードが紹介されているが、気になったのが略年譜もそこで終わりになっているフランスの飛行中隊長として、地中海で行方不明なったテグジュペリのその後。こういう雑学には詳しい歴史ライターの蚤野久蔵に尋ねたら、2003年9月にマルセイユ沖の海中からフランス空軍が第二次大戦中に使っていたロッキードP38型機が引揚げられ、その機体番号からテグクジュペリの搭乗機と判明したことを教えてくれた。さらに彼が今回の文庫の「王子のマントの色」を聞くので「緑色だよ」と答えたら、「持っていると言っていた単行本と比べてみたら面白いよ」と。そんなことってあるのだろうかと多少いぶかりながら確かめてみた。それがこちら。上がニューヨークでの初版の色に統一された緑色マント姿の王子、下はフランス版から続いた青色マント姿の王子である。
統一後の緑色マント姿の王子
フランス版以来の青色マント姿の王子
なんでも2000年のテグジュペリ生誕100周年に、それまで二種類あったマントの色を亡命先のニューヨークで先に出版された初版(オリジナル版)通りの「外側が緑で内側が薄い赤」に統一されたという。ニューヨーク版に遅れること2年後のフランス版出版当時、戦中戦後のどさくさもあって手がけたガリマール社は「外側が青で内側が赤」とした。その後、原画が見つかったことなどもあって遺族が統一を希望したのだそうだ。「テグジュペリ本人も緑色を<心の糧であり魂が落ち着く色>として大好きだったからね。喜んでいるんじゃないかな」と雑学の大家は付け加えた。
もし、みなさんも単行本の『星の王子さま』をお持ちなら、そのマントの色を確かめてみるのも一興かもしれない。
ではまた