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季語道楽(36)穏やかにして厳格な巨人  坂崎重盛

柴田宵曲『古句を観る』を観る︱︱とその前に急拠増刷の山本健吉の『こ

とばの歳時記』を

 

高浜虚子の「ホトトギス」のもとにあって、メジャー、大御所の虚子とは、正反対ともいえる学究的句人、柴田宵曲。宵の曲とはなにやらロマンチックめかした俳号だが、自分の生き方が、どうにも消極的なので、その昔からショーキョク的=宵曲としたという、いかにも超俗的俳人らしい話を、どこかの本で読んだ記憶がある。

なにかと表に立つこと、目立つことが苦手だったようで、これまた、どこかに出ていたエピソードだが、大正十一年、関東大震災の直前、丸ビルが建ったとき、虚子は、なんと、その、トレンドの先端、話題の丸ビルに「ホトトギス」の編集部を設けることにした。

そのとき、この柴田宵曲、「ホトトギス」を脱会する。その理由(の一つ?)が、「あんな新名所みたいなモダンなビルに、自分のような、いつも下駄ばきの人間が出入りするのはおかしいでしょう」と言ったとか。

これもまた、ぼくの好きな宵曲の関わるエピソード。まあ、ひと言で言ってしまえば、「じつにシブイ人。また、懐かしい感じのする人」。

 

この宵曲の著作が岩波文庫に六冊収められている。うれしい。

古句を観る 著:柴田宵曲

古句を観る 著:柴田宵曲

まず、この『古句を観る』続けて列記する。『評伝 正岡子規』『俳諧随筆 蕉門の人々』『新編 俳諧博物誌』(小出昌洋編)『随筆 団扇の画』(〃)『子規居士の周辺』(〃)。

ところで宵曲に俳句関連以外に、もうひとつの隠れた顔がある。あの江戸話の大家、江戸をテーマとする学者、研究者、あるいは江戸の時代物作家で、この人の本のお世話にならなかった人など百%ない、といえる︱︱三田村鳶魚、この人の著作の多くが、柴田宵曲による聞き書きによって作られたもの、という。

 

そんな宵曲による『古句を観る』︱︱タイトルは江戸の古い句の紹介本かと思われるが、これがじつは歳時記本でもあった。もっとも、本を手にして目次を見れば一目瞭然、目次は、「新年 春 夏 秋 冬」と巻末解説の森銑三による「宵曲とその著『古句を観る』と、編著・小出昌洋『俳人柴田宵曲大人』のみ。

 

と、ここまで書いて気分転換のため、近くの書店へ。文庫本の棚の前に立つと平台に一冊の俳句本が。山本健吉著『ことばの歳時記』(角川ソフィア文庫)。

ことばの歳時記 著:山本健吉

ことばの歳時記 著:山本健吉

この山本健吉の文庫、すでに持っていたはず。ところが帯に「上皇陛下と上皇后陛下がおふたりで音読している本︱︱宮内庁「上皇陛下のご近況について(お誕生日に際し)より」とある。

ご皇室の人が「ことばの歳時記」とは題されているものの、俳句を、おふたりで音読!? 和歌ならわかります。しかし、滑稽や諧謔を源とする俳諧とは! 新年「御歌会始め」が催されることはよく知られるところではありますが、「新年投句会」などということは聞いたことがない。(ほう、ご皇室も、ここまで開かれたか! あるいは?……)と、新しい帯によって、がぜん、この文庫に、あらためて興味がわくこととなった。

しかも、巻末の解説が、字多喜代子さんではないですか! まさに、本は人を呼ぶ。『古句を観る』を脇に置いて、『言葉の歳時記』を手にとらずにはいられなくなった。

くりかえしになりますが、ご皇室で俳句? 話はちょっと飛ぶが、ある時から、お茶や華道は、上流、中流家庭の婦女子のたしなみと思われるようになったが、とくに茶道などはもともとつわものどもの武士、あるいは豪商などがもてあそぶものであって、貴人の公家や、まして、やんごとなき宮中の方々が関わるものではなかったはずだ。

もとより、歌道は雅びだろうが、俳諧は俗をもってよしとする世界であった。茶道が、侘び寂びと言ったって、その大元に刀による、しのぎのけずり合い、あるいは命のやり取りそのものがある。豪商の趣味としても“豪”の文字が付くように、物や金の収奪の結果でしょう。

 

ご皇室と俳諧︱︱このへんのところ、一度、知り合いの歴史学者に聞いてみようか。いや、「余計なことを考えるな、日本の伝統や、四季の風物への思いがあって文化のひとつとしてご皇室が俳句の世界にふれて何が悪い」と一蹴されるかもしれない。

もちろん、“悪い”などとはまったく思っていません。ただ意外の感を抱いたまでのこと 。もう少し言わせてもらえば、日本の伝統文化というのなら川柳などはいかがなものかしら。それも、破礼句(バレ句)だったりしたら、江戸以来の庶民の赤裸々な姿、下々の情にふれることができると思うのですが。

戦後の粋人仏文学者・辰野隆先生や、仏文学者で川柳の事典の編集もされていた田辺貞之助先生、専門は中国文学の奥野信太郎先生、あるいは民俗学の池田弥三郎先生のような、下情に通じた碩学の方々が、この令和の世にいらしたら……。

 

閑話休題(あだしごとはさておき)、山本健吉『ことばの歳時記』にふれてみたいと思ったが、巻末に著者による「歳時記について」という、重要な一文もあることから、やはり、後の山本健吉の項で、他の歳時記関連の著書とともに紹介することとしたい。

またまた、すっかり道草を食ってしまったが、本題の柴田宵曲の名著であり貴書である『古句を観る』を見てみよう。

この本のあらましを手っ取り早く知るには巻末の書物の話といったらまず、この人、森銑三による解説に頼ろう。

書き出しがいい。一行目の冒頭︱︱

宵曲子は奇人だった。

いいですねぇ、囲碁か将棋の第一手。ピシリ! と石か駒を置いた感じ。

(この項つづく)

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