1. HOME
  2. ブログ
  3. 季語道楽(46)金子兜太『わが戦後俳句史』 坂崎重盛

季語道楽(46)金子兜太『わが戦後俳句史』 坂崎重盛

戦後の前衛俳句のリーダー、しかも宗匠的権威主義ではなく、直情的、真摯でであるものの、どこか朗らかなガキ大将的キャラクターの金子兜太の単刊歳時記等にふれ、今回は、その対極的ドン、近代俳句史の大黒柱的にドカッと存在した虚子(高濱)の、ハンディな季寄せと歳時記に進むつもりが、つい視界に入った兜太『わが戦後俳句史』(岩波新書・一九八五年刊)を手にとってしまった。しかも前回、話の流れのなかで兜太大人の雄渾な書のことなどにも訳知りのコメントをしたが、なんと、その兜太自筆の色紙まで出てきてしまったのだ。

こうなるともうご縁だ。例によって、少しだけ兜太さんの項、追加、寄り道させていただく。

『わが戦後俳句史』、この書は著者がミクロネシアのトラック島で敗戦を迎えたときから始まる。主計科中尉として戦地におもむいていた青年将校・兜太は「この戦争は日本もアメリカもどちらも帝国主義戦争だ」と思いつつも「この戦争でもし日本が負ければ民族の壊滅になりかねない」「民族防衛戦争という一面を持っているーー」と「半ば肯定的に体を張っていた」という思いだったようだ。

それがついに敗戦、と言う結末。このとき隊には二百人ばかりの仲間(実際はほとんどが部下だろう)がいたというが、中尉という立場、責任感から、「自分はたったひとりだ」という思いに落ち込んだという。ところが、そのあとがいかにも金子兜太らしい記述に接することができる。このとき金子主計は、

天井からぶら下げておいたバナナがちょうど熟(ル、う)れてきたのを一

房ちぎってむしゃむしゃ食べながら、ベッドの下に飼っていたマスコット

の大きなトカゲをながめたり、そんな状態でぼやーっとベッドに腰掛けて

いたのです、

ーー親しいペットの、大きなトカゲのなじみぶかい顔に視線を向け、見やるしかなかった兜太エリート青年将校の孤独が静かに伝わってくる。と、同時に、どこから持ち前の生命力というか、ユーモアさえも感じてしまう記述ではありませんか。

時計を少し逆戻しする。業俳(プロの俳人)になることなど、まったく考えてはなかったものの学生のころから句誌にかかわり、ずっと俳句は作りつづけるだろうと自ら思っていた兜太青年は、三人の俳人を自分の師と思い定めている。

一人は、学生俳句仲間の母、竹下しづの女(じょ)。この「ホトトギス」の「有力な同人で、たいへん男まさりの句」を作る女流俳人の兜太はファンであったようだ。

そしてあとの二人が、中村草田男と加藤楸邨。

兜太は「人間としては楸邨、俳句の目標ととしては草田男」と、「開戦のときの草田男句、楸邨句の印象と、私が敗戦直後に二人の句集や序の記憶をたどって考えた両者の比較」を考えて、「自分のこれからの道をおもうと、やはり楸邨に師事するしかない」と決めたという。

そこから兜太の戦後俳句史はスタートする。以後、昭和三十五年の安保闘争、樺美智子国民葬までの社会的背景と、その時間のなかでの俳句体験が語りつがれる。くわしくは、本文にあたられたし。まさに兜太のリアルな人生史であり、俳句生活史。

わが戦後俳句史 著:金子兜太 岩波新書

わが戦後俳句史 著:金子兜太
岩波新書

巻末には、文中で紹介された自句が五十音順(時代順ではなく)で索引として付されている。この中から十分の一ほどの十句にしぼって選んでみた。

朝にはじまる海へ突込む鷗の死

海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

華麗な墓原女陰あらわに村眠り

きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ

死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む

青年鹿を愛せり嵐の斜面にて

デモ流れるデモ犠牲者を階に寝かせ

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

湾曲し火傷(ル かしょう)し爆心地のマラソン

以上、昭和中頃までの著者・金子兜太の生から吐き出された句だが、この今日、ITとかデジタル化社会とかいって、無臭、無色透明なふうを装いながら、なにか、あちこち、電気コードが焦げているような不快、不穏な臭いただよう時代こそ、兜太句はよみがえる力を持つのではないだろうか。

ピコピコとか鳴るデジタルの軽快(?)音ではなく、直撃的な、背骨に響くような、時代への生(なま)の警戒音として。

ところで、この十句の他にも、どうしても挙げておきたい数句を。

暗黒や関東平野に火事一つ

猪が来て空気を食べる春の峠

陰(ほと)しめる浴みのあとの微光かな

谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな

梅咲いて夜中に青鮫が来ている

すでに、この間の稿で重複紹介している句もあるが、こうして並べてみると、なにかスゴイ。野性の視覚、動く生き物、原初の皮膚感覚からの訴えというか。兜太さんは、やはり予定調和の俳句形式を越えた短詩系表現者だった。

 

兜太さんに関わる蛇足は、先日見つけ出し、いま本棚に立てかけてある色紙の件。例の野太い筆文字でーー「俳句の友だち」ーーとある。これは、もう二十年ほど前に企画した本のタイトルを兜太先生に依頼して墨書していただいたもの。(その色紙を掲げておく)。(多分、嵐山光三郎氏のご縁だったと思うが)

これが、このタイミングで、積み重ねた本の間から、わいたように出てくるとは……。なにかの福音か? はたまた……。

 

とにもかくにも、敗戦色濃い南の島で、大きなトカゲを心許せる、ペットとしてベッドの下に棲まわせ、同床異夢? で心を慰めた俳人・兜太中尉は、先達の「花鳥諷詠」で自然と対した高濱虚子の自然観とは、また異なった原始のイメージのある自然との対し方、いや、むしろ、兜太自身が自然児のDNAを有する、“自然兜太”と呼びたくなる、特異な、戦後俳句史を代表する俳人であった。

(2018年9月23日九十八歳没。9月23日は兜太の忌日であり、以後刊行の歳時記に載ることになるだろう)

 

 

 

 

 

 

関連記事