季語道楽(52)必携季語秀句用字用例辞典に驚く 坂崎重盛
この季語用語用例辞典の編者の名に気付いて入手した。︱︱齋藤愼爾。
もう四十年ほど昔になるだろうか、新宿御苑の近くの古い建物の二階にAという居酒屋というかスナックがあった。そこをきりもりしている女性の、素朴な印象ながら知的魅力があったためか、ゴールデン街からは少し離れてはいたものの、いわゆる新宿文化人に類する客が集まる店として知られていた。
といってもAは、当時のゴールデン街の名物店のような、泥酔系の客はまず寄りつかず、二、三人連れの何組かの客が、くつろいで酒と会話を楽しんでいるような居心地のよい店で、齋藤愼爾氏とはそこで何度か出会っている。
ぼくの若き仕事仲間がAの常連で、やはり、その店の常連の彼から齋藤氏を紹介されたのだが、親しく会話をしたことはない。ぼくにとってAという店はあくまでもヴィジターで、そこの常連さんと話をするのは控えたい気分があったからだと思う。ただ彼が「深夜叢書」という話題の出版社を営んでいることは知ることとなった。
その齋藤氏の名が、何十年ぶりかで、この連載を続けるなかで、甦ってきたのだ。例えば直近では、これは既に記したが、千曲秀版社刊・金子兜太編『現代俳句歳時記』を手にしていたとき、本文扉裏に、極めて控えめ、一〇級ぐらいの文字で「装幀」として氏の名前を認めることができ、金子兜太氏との浅からぬ間柄を推し測ったのである。
余計な前フリが長くなったが、その齋藤愼爾・阿久根末忠の共編になる『季語秀句 用字用例辞典』(柏書房刊)の帯を見る、いや、読む。(くり返しになりますが、その書籍の“キモ”は帯に示されている)表の帯のコピーを書き移す。
「収録語彙 六五、〇〇〇語 例句二五、五〇〇句 類書中最大」
創作に抜群の威力を発揮する「歳時記(季語)+国語辞典(用字用語辞典)
とあ、裏の帯には 推薦の言葉として
有馬朗人(国際俳句交流協会会長)︱︱齋藤愼爾氏の編集ならば、この事
典が優れたものであることは疑いない。
金子兜太(現代俳句協会会長)︱︱俳句が醸し出す、日本列島の風土と生
活文化の厚ぼったい雲間をただよう気持。
鷹羽狩行(㈳俳人協会理事長)︱︱季語を後世に伝えることは日本文化の
継承に重要な役割を果たす。
(おっ、やはり推薦者のひとりに金子兜太大人登場、と思ったが、それより「収録語彙六五、〇〇〇語 例句二五、〇〇〇句」の数の多さに驚いた。付録を入れて、本文一、二五四ページ。本文二段組み。
ちなみに「夏来る」(なつきたる)の項を見てみる。例句にドキリとする句ばかり挙げられている。(たしかに歳時記は“例句が命”だな)と改めて思った。
どうしても結社を率いる編者による歳時記は、そこに拠る同人、投稿者の例句を多く採用する傾きがあったりするが、初心者にとって「歳時記選びのコツは」例句を見て、それらが自分にとって好ましい句、感銘を受ける句であるかどうかどうかではないだろうか。
この辞典で「夏来る」は、
なつくる 夏来る 季(かこむ)初夏 時候 夏に入る、夏立つ 立夏。
例句は八句。
金銀の夏は来にけり晩年祭 永田耕衣
おそるべき君等の乳房夏来(ル きた)る 西東三鬼
毒消し飲むやわが詩多産の夏来る 中村草田男
汽缶車の煙鋭き夏は来ぬ 山口誓子
渓川の身を揺りて夏来るなり 飯田龍太
路地に子がにはかに増えて夏は来ぬ 菖蒲あや
夏来ると河口情死のにおいして 宇多喜代子
葦原にざぶざぶと夏来たりけり 保坂敏子
八句のうち、三鬼、草田男の句は、すでにぼくでも知っている句であり、誓子の「汽缶車」は、すでに紹介ずみの、これもまた有名な「夏草に汽缶車の輪来て止る」があり、誓子の、機関車の持つ力量、力感に強く反応しているのが興味ぶかい。誓子は機関車フェチだった?
菖蒲あやの句は戦後の下町育ちとしては実感!
八句の中で、初めて出合って(これは一発で記憶に残るな)と感じ入ったのは宇多さんの句。「情死」に特別のにおいなど、あるわけないが、「河口」が効いて夏の幻想的な物語を生み出している。鶴屋南北? 泉鏡花? の小説世界を十七文字で味わせてくれる。
と、まあ、こんな楽しい読み方もできる辞典。
そう、もうひとつ書き添えておきたいのは、例句のすべて一見目立たないが、藤色で印刷されている、つまり全頁二色刷りだったということ。編者、辞典造りした人の、本造りに対する並々ならぬ楽しい情熱が伝わってくる。
そう、例によって、編者による「はじめに」を紹介しなければならなかった。この「はじめに」は再読、再三読する価値がある。四ページ分、全文そのままコピーしたいくらいだが、そうもいかず、部分部分をピックアップ、引用する。名文と思う。
「はじめに」
正岡子規の俳句革新に始まった現代俳句は、敗戦の炎に焼かれ、「第二芸
術論」の矢に射られながらも、不死鳥のごとく甦り、いま未曾有の隆盛を
迎えている。
この辞典の刊行は一九九七年。この文章での「いま未曾有の隆盛」というのは、もちろん刊行時。また「第二芸術論」の矢、はすでに記してきたように桑原武夫の昭和二十一年、雑誌「世界」に掲載された現代俳句という文芸表現への批判。
(中略)
歳時記は聖書や各種学習参考書に並ぶ隠れたベストセラーである。俳句
作家で歳時記を座右に備えていない人は、聖書を持たないキリスト教徒が
想定できないように、まず皆無といってもいいであろう。
(中略)ところが近年、歳時記は俳人にとどまらず、一般の文学愛好家、
さらには地球環境や自然保護を考えるエコロジスト、海外へ赴任するビジ
ネスマンたちにまで重宝がられている。(中略)私たち日本人が自己のアイ
デンティティや伝統的感性を確認するとき、海外へ赴任するビジネスマン
が「故郷喪失」という病を内に抱えながら、望郷の歌をうたおうとすると
き、歳時記が彼らの感情の後背地を形成するものとして座右におかれる所
以である。
(中略)
山本編纂本を始め現今の歳時記が、「今日の私たちの生活に迂遠と思われる
季題を省いた」だの「例句のない季題の大部分は削除した」と「凡例」に
録し、ただ使用されていないというだけで旧季語を貝殻追放しているとき
に、その欠を補うべく最大限努めたつもりである。
現代日本人の生活から、かつての季節感が失われたからといって、季語そのものを歳時記から消し去ってしまう傾向に、「貝殻追放」という古くギリシャの言葉を用いて、その異を唱える。膨大な季語、用語の収録はその考えの反映である。
ところが編者は、この季語、歳時記を盲信的に崇めたてまつるのではなく、厳しく相対化する。重要な言説だ。
季語が一度典型化され美化されると、その理念は制度として人々の想像力
を拘束することとなる。歳時記は俳句を骨がらみ規定するパラダイムと化
し、俳人の感受性、世界観、コスモロジーを支配するということである。
次の一節が、この「はじめに」の締めとなるが、ここで、この辞典の編集意図、また、他の類書にない意識的な企てが表明される。少し長い一節だが引用する。
本辞典を編集しながら、私たちは擡頭する新世代俳句作家たちの声にも
耳を傾けた。「短詩型に託されるのが、日記風の季節感だけだとしたら、た
いへんおそまつな話だ。季節感を突きぬけた世界観や宇宙観、あるいは人
間観が問われないと詩などは、滅亡すればよい(夏石番矢氏)―ーその内
的衝迫の有無があるいは従来の歳時記と本書を分かつ差異と言えるかもし
れない。詩的連想の広がるキーワードや無季俳句を多く収録したことは本
辞典の一画期と自負する。
現代俳句における詩語としての季語、歳時記を、極めて自覚的に意識して編まれた齋藤愼爾・阿久根末忠による季語、歳時記、用語辞典にまで至ったので、このへんで一段落としようと思ったのだが、見やれば壁の傍らに、単巻歳時記関連の本が積まれている。キリもないので、これらの本についてふれることは省略して、次の、各社が社の威信をかけて競作したと思われる複数刊の歳時記に移って、この長かった季語、歳時記巡礼の旅を終えたいと考えていたのだが、やはり、どうも気になる。それらに一言もふれずにスルーしてしまっては、何かそれら歳時記たちに申し訳ない気がしてきたのである。これらの一冊一冊は、神保町古書店散歩や、気ままに立ち寄った古書展などで出会って入手してきた本である。今日、ぼくの手元にあるのも、なにかのご縁といえる。
やはり、手に取って、一言くらいずつ紹介しておこう。いわば季語、歳時記供養、そのほうが、こちらの気もおさまる。
順不同でゆく。
すでに紹介ずみの、大正十五年、集栄館書店刊版・曲亭馬琴著『俳諧歳時記栞草』と同じような気配を放っている一冊を手にする。
○『昭和大成 新歳時記』・宮田戊子著(昭和七年 近代文芸社刊 六七〇頁)。布製で扉は石版刷りの趣き。戦前んp歳時記によくあるように、文人趣味の読者に向けての、口絵に「王子の田楽」(東都歳時記所載)、壬生念仏(年中行事大成所載)の折り込み図版。序として露月山人(石井露月・子規・虚子との交流あり)と、庄司瓦全(内藤鳴雪、渡辺水泡、露月に指導を受ける。季語の解説も文語体。例句、もっとも新しいものでも虚子の前期の時代で、これはこれで参考になる)。ところで、この縮冊本(昭和八年刊)も持っていた。こちらは九一六頁。つい、ダブってしまう。
こちらも、戦前の歳時記。
○『新修 俳諧歳時記』・小島伊豆海(昭和十三年刊・洛東書院・二八六頁)
「はしがき」に︱︱最も合理的に訳注作例、を簡約して一般俳人諸君のためスピート的に目的を達し、事に臨んで変化をふくむ様に心掛け編輯した︱︱。こちらも解説は文語調。“スピート”がいかにも昭和戦前? 編者の略歴は不明。
○『俳句歳時記』・永田義直編(昭和四十七年・金園社刊・九四四頁)・著者は公立高校の教諭。校長を勤めたあと俳句関連の著作活動に。「はしがき」に︱︱「歳時記」は一党一派に偏した我流的なものであっては、ならないと信じました︱︱とある。ここには、有力な結社主催者と門人による“党派的”歳時記への批判の目が光っている。それにしても本文、ざっと数えても四〇〇字ヅメ原稿用紙を二、五〇〇枚は超える。歳時記づくりは大変な作業だ。ましてや、一人での執筆、編集とすると。
○『日々の歳時記』・広瀬一朗著(昭和五十五年・東京新聞出版局刊・五〇八頁)巻頭に山本健吉による「本書を推す」という一頁足らずの“お付き合い”的文章。この歳時記の特徴は、春夏秋冬(新年)の区分けではなく、日めくりカレンダーのように(月)日から一頁ずつ、十二月三十一日に終わる構成となっている点で、随筆的歳時記。著者は東京新聞の論説主幹。巻末「あとがき」によると、この歳時記は二年余にわたって東京新聞に連載したものを再構成したものという。謝辞として、師の戦後社会性俳句を唱えた沢木欣一や、松瀬清々に師事、沢木夫人の細見綾子の名が見える。
『辞典』や『事典』と題するもの。
○『季語辞典』・大後美保編(昭和四十三年・東京堂出版刊・六六〇頁) 著者は東京大学農学部卒。成蹊大学教授・農学博士。『農業気象学通論』『季節の辞典』他、農業と四季に関わる著作を持つ。「序」によると、著者は気象庁に勤務、三十年にわたって「季節学」を研究。この辞典は︱︱俳句の季題やきごにとらわれないで、季節に関係のある言葉を科学的になるべく正しく検討しなおしてみる必要があるということを痛感︱︱それが、この辞典を編む動機となったという。季節の自然を重点としたため、世の歳時記と異なり、年中行事などはかなり割愛と断っている。たしかに、この『季語辞典』は、もう一冊、普通の歳時記を傍らに置くべきだろう。奥付を見ると初版から五年間で八版を記録している。
○『季語 語源成り立ち 辞典』・榎本好宏著(二〇〇二年・平凡社刊・三九六頁)。
著者は森澄雄に師事、句集の他に『江戸期の俳人たち』『森澄雄とともに』他の著作がある。「はじめに」で、この辞典の成り立ちに関する記述がある。︱︱ここに掲載した季語は、「別冊太陽」(平凡社)の『日本を楽しむ暮らしの歳時記』(全四巻)から選んだものに、新たに八十余の季語を加えた︱︱としている。そして、この季語辞典の特異なところは例句が一切挙げられていない点である。季語のみの解説辞典。この著者が師事した森澄雄編による簡便にして親切な入門書である。にしても例句をあげないとは、なんと大胆な編集方針。
○『名句鑑賞事典︱︱歳時記の心を知る』・森澄雄編(一九八五年・三省堂刊・二六四頁)。
この新書サイズのハンディな鑑賞事典は、ぼくがなにかにつけ手に取る“読む歳時記”である。その理由のひとつは、改めて思えば、編者・森澄雄という俳人への信頼感かもしれない。
本文の構成は、主な季語四〇〇を選び、一頁二題構成で代表句一句に解説、さらに例句を二句から七句ほど挙げられている。季語、傍題、例句、作者名にはルビがふられ、初学の人に親切な編集。
親切といえば巻末に「俳諧の歴史」「俳句の〇〇」「作者紹介」「年表」が付されているのもありがたい。ぼくなどは、この一冊とあとは用語辞典がわりの季寄せか文庫サイズの歳時記一冊を再三、再四頁を開けば、かなり俳句の世界に通じると思っている。
“初心者に親切で”思い出したので書き添えておくと、角川ソフィア文庫(KADOKAWA)の、令和になってから出版された新海均編『季語うんちく事典』と角川書店編『俳句のための基礎用語辞典』も俳句世界への案内書として、ありがたい文庫本である。
前者の“うんちく本”では、たとえば、有名な春の季語、「山笑ふ」(ル やまわらふ)の出典が示される。北宋の禅画家・郭煕(ル かくき)の『林泉高致』の一節「春山淡治而如笑」(春山淡治にして笑ふがごとく)から、「春の山がいっせいに芽吹いてエネルギーに満ちあふれた明るい感じ」から歳時記に取り入れられたという。例句は、
山笑ふ歳月人を隔てけり 鈴木真砂女
もう一例だけ。「相撲」(ル すもう)。今日では、年六場所なので「いつの季語?」と思われるかもしれないが、俳句では「秋」。なぜかといえば、相撲は宮中で七夕にその年の豊凶を占う神事として行われ、また民間の草相撲も秋祭りのころ行われたので、秋の季語となった。例句は、なんとも絶妙な、
やはらかに人分けゆくや勝角力 (高井)几董
後者の『俳句のための基礎用語辞典』は、より俳句実作者向け。仮にも句界の席に加わり、投句、選句でもしようとする人への“これくらいは”という用語が平易に見開き二頁に整理されて解説される。よき入門書というものはいつもそうだが、こちらの知識や理解のムラや偏りを補い、ただしてくれる。
章立ては「Ⅰ 俳諧」「Ⅱ 俳句史」「Ⅲ 作句法」。「Ⅰ 俳諧」では、明治の子規以前の俳諧連歌の世界の用語「Ⅱ 俳句史」では子規以後、虚子に始まる近代俳壇の運動史とそこから生まれキーワードとなった、さまざまな用語、また「Ⅲ 作句法」では、句作りにおける姿勢、また基本的ルールなどが解説される。俳句の世界が一望できる恰好のサブテキスト。
この二冊の俳句文庫本、さすが“俳句の角川”と、うれしく思った。