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色は匂へど散りぬるを我     梶屋隆介

「恋」の記憶というものは、その時の「あなた」を思い出せる、思い出したいということだ。だから、思い出せない「色の事」は「恋」とは呼ばない。

甘かろうがしょっぱかろうが、香しかろうがそうでなかろうが、記憶されていれば「恋のむかし話」はいつでも始められる。

恋のむかし話の系統樹を辿ってゆくと、新ピンのトヨペット・クラウンの車内の匂いがした。昭和三十三年春、幼稚園の卒園を間近にした頃のことになる。丸山恵子という女の子が同じふじ組にいた。家が近かったので、帰りによく一緒に歩いていた。会話はない。途中にあるパン工場の前を通る時に、ふたりで鼻をクンクンさせて空を見上げていただけだ。

その丸山恵子がこう言った。「うちにクルマのきたけん、今日、乗ってみらんね」。

寄り道をして彼女の家に行くと、トヨペット・クラウンがピカピカに輝いていたのだった。黒とシルバーの観音開きドアのトヨペット・クラウンだった。この一台でゆうに家が建ったはずだ。後ろの座席に座らせてもらって、丸山恵子と鼻をクンクンさせて高級車の匂いをかいだ。彼女が「パパ」と呼んでいた父親が、クルマを発車させてくれることはなかった。「パパ」は開業医だった。丸山恵子は卒園すると地元で唯一のお坊ちゃんお嬢ちゃんの学校へ進んだ。女医への道を歩み始めたのだろう。私は小学校二年生まで、パン工場の前で鼻をクンクンさせて胸いっぱいに酵母の香り吸い込み、空を見上げていた。

系統樹を少し上がってみる。ネアンデルタール人からホモ・サピエンスに行きついた頃合いだ。世渡りに長けた子も出てくるもので、そういう子にくっついて行って、パン工場の裏口でもじもじしながら立っていると、おばさんがやってきて五円玉と引き換えに乾袋いっぱいのパンのクズが手に入ることを教わった。多くは食パンの耳だったが、運がいいと菓子パンの残りものの山に当った。小学校三年生になっていた。パンの切れはしを頬張って三角ベースボール、凧あげ、紙ヒコーキ作りに忙しいから「恋」はない。

小学校四年生になった日、ひとりの女の子が転校してきた。「大阪の豊中から来ました」と彼女が挨拶をした途端、クラス中が笑った。『てなもんや三度笠』や藤山寛美の松竹新喜劇のテレビ放送にも笑いころげていたが、この時の笑いは違った。オレたちと同じ歳の女の子が藤田まことや白木みのる、藤山寛美と同じようなイントネーションでしゃべるという「発見」であった。

驚いた。驚いた時の感情表現は、小学校四年生のイナカの子らには笑うことしかできなかった。以来、糸木恵子は学校ではほとんどしゃべらなくなった。

そして冬が来たある日、昼休みの校庭で彼女がひとりで鉄棒をやっていた。片脚を鉄棒にかけて、後ろへクルックルッと回っている。鮮やかな緑色の毛糸のタイツがクルッ

クルッと回っている。大阪の都会の色だと思った。あの頃のイナカの女の子は、いったい、冬は何をはいていたんだろう。その日によってオレンジ色や黄色や空色に変わる毛糸のタイツは、糸木恵子だけのものだった。

ランドセルの中にしまっているクレヨンや折り紙にこそ原色はあったが、日常に原色は見当たらなかった。レナウン娘がワンサカワンサカと明るい色をまとって街に飛び出してくるのは、もう少し先だ。結局、糸木恵子とは卒業まで同じクラスのままだった。そして、卒業式が近づいた日、彼女が渡り廊下を駆けてきた。

「あたしのこと、どげん思っとるん?」

もうフツウのイナカの女の子のしゃべりだった。多分、その時も糸木恵子は原色の毛糸のタイツをはいていた、に違いない。

「恋のむかし話」はこれでおしまいになる。小学生まではみんなこんなもんじゃなかろうか。『ロッテ 歌のアルバム』は毎週のように観てたから、歌謡曲の大人のそのような世界は耳に入ってくるが、脳ミソが消化できない。消化できるようになった頃には、それこそ色香に惑わされるだけで、腹ペコの時に鼻をクンクンさせたことや原色のタイツに驚いたことなど、どこかへ置いてきてしまっている。鼻をクンクンさせるのは、鰻屋の前を通る時だけ、という約束事になってしまっている。

 
 

おとなはみんな子どもだった

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