昭和の大家族の風景 岡崎正隆
私の幼少期を語るには父のことに触れざるを得ません。なにしろ、私が誕生した時、父はすでに50歳でした。父は明治27年、日清戦争の年に生まれたのです。因みに、芥川龍之介は明治25年生まれ。
父と私の年の差は50歳、パパと呼んだ記憶はありません。末の弟は私と一回り以上、離れておりましたので、父をどう感じていたのか。母が私を生んだ時は20歳、今年96歳になります。今でも30歳差の夫婦はめったにおめにかかりません。
父は19歳で現在の名古屋大学の医学部に入学し、卒業後は名古屋大学、順天堂大学に勤務し、27歳の時、実家のある宇都宮で開業。その年、女医と内縁関係となりますが、結婚する意思はなかったようです。子供が生まれたため、仕方なく養子縁組して入籍。医院を開業したものの数年で閉院し、再び、名古屋大学の研究科に入学し、博士号を取得します。当時の地元紙は報じています。
「姿を消して幾星霜 博士となって帰郷」「医学博士となる 下野中学校出身 相撲好きで有名な人」の見出しのあと、「医学博士になった同氏は豪放磊落で逸話に富んだ人物で、殊に相撲好きなのは有名であった。何を感じてか、突如医院を閉じ飄然、姿を消したので不審の眉をひそめた者も少なくなかったが、なお研究の必要ありと名古屋大学の研究科に進んだ」記事は長々と研究内容まで紹介しております。その間、形だけ入籍していた女医との間で離婚訴訟を起こしております。このことも地元紙は五段抜きで掲載しております。「別居十余年の医師 更に解消の訴訟 父を見ぬ愛児を抱いて帰る日を待つ女医」
一市民の離婚問題を新聞ダネにすることは今では考えられないことです。
研究科を卒業すると、商船三井の船医として9年間も世界中をまわり、“ドクトル・マンボウ”気分で船旅を楽しんでいたのかもしれません。
船医を辞め、再び名古屋大学の医学部に2年間、勤務のあと、長野県駒ケ根市の院長に抜擢されたのが49歳のときです。院長の社宅の前に母の実家がありました。どういういきさつで結婚したのか、健在の母に問いただしたことはありません。なにしろ、歳の差が30歳です。この偶然の、運命的な結婚がなかったら、私はこの世に存在しませんでした。
戦後、GHQの勧告で農地解放があり、不在地主は土地が没収されるとのことで、昭和22年、私が2歳のとき、家族は実家の宇都宮に戻り、父はそこで開業することになります。
父の前の代まで地主でしたので、広い屋敷がありました。大谷石の塀は数十メートルもあり、敷地内には大谷石でできた米蔵が二棟、農機具を入れる納屋、小さな神社、交番、郵便局、竹やぶの隣は家畜小屋で、山羊、羊、鶏、豚を飼っておりました。そのほか、弓場、土俵、伝書鳩の小屋までありました。門から玄関まで数十メートルもあり、夜の塾の帰りのとき、怖くて夢中で走ったことを覚えております。毎年、羊の毛を刈る人や茶摘みの女性の作業を眺めるのが楽しみでした。自宅のそばの田んぼの田植え、稲刈りを手伝ったこともあります。当時、田にはイナゴが大量に発生し、イナゴをビンに入れて、学校に持っていくと肝油が支給されました。田んぼで賑やかに鳴いていたカエルの声が忘れられません。父は大学の相撲部に所属しておりましたので、実家の庭に土俵を作りました。父は栃木山、男女の川がひいきで彼らの手形と父の手形が額に飾られて実家に残っております。私と弟たちの手形もあり、全員、相撲のまわしを持っておりました。父の耳たぶはつぶれていたため、私は子供のとき、父の耳を見て、聴診器が落ちないために、あんな耳になったんだと思っておりました。
村祭りには相撲大会がありました。土俵の近くの大きな桜の木の下で家族だけでなく、近所の人を誘って花見の大宴会を毎年、やっておりました。相撲大会のほか、映画の上映、田舎芝居の興行も敷地内で行われました。
家族は両親、父の妹、子供たちの9人でしたが、里子が7、8人おり、大家族でした。父は実子と同様に里子もすべて平等に育てました。そのことが新聞に載ったこともあります。いちばん苦労したのは母親です。これだけの人数の手料理はできませんので献立はいつもちゃんこ鍋かすき焼きです。すき焼きのときは父と町まで牛肉の買い出しに出かけ、肉屋の主人とも親しくなり、私は将来、肉屋になるんだと、本気で考えたほどです。当時は炭でしたので七輪だけでも四卓も用意しなければなりませんでしたが、楽しい夕餉でした。後年、テニスクラブの友人18人、文春野球部の10人を連れて自宅で合宿したことがありますが、母は動じることなく、全員に料理を作ってくれたのも大家族で培った賜物です。風呂を沸かすのも今と違って大変でした。私が当番のときは薪割りから始まり、新聞紙に火をつけて熾すのですが、なかなか点火せず、竹藪から取った竹の吹子で風を送って、火を絶やさないようにしました。その火の明かりで読書をしたこともあります。
夏の風物詩ですが、毎週日曜日は歩いて10分ほどの鬼怒川での水浴びです。帰宅すると、全員、広間で大の字になって昼寝し、そのあと、井戸水の風呂で冷やしたスイカのおいしさは格別でした。夜は広間いっぱいに吊らされた蚊帳の中で寝ました。
父は氷点下の真冬でも毎朝、冷水をかぶり、開けっ放しの廊下で今でいえばストレッチを真っ裸でやっておりましたが、私にはとうていマネのできないことでした。父と弟たちと一緒に鬼怒川の土手でよくランニングをしました。私がマラソンに夢中になったのも幼い日のランニングがよみがえったせいかも知れません。父の盲腸の手術にも何度か立ち会ったことがあります。母の運転する車で夜遅くの往診に同行したこともあります。この時、医者にはなりたくないと思いました。
父が市会議員に立候補したとき、母屋には支持者が大勢いて、私たち子供は病室で寝泊まりすることになり、この経験から政治家には絶対なるまいと思いました。小学5年のとき、町の英語塾に一時間かけて通いましたが、生徒はほとんど中学生で、授業についていけず、塾をさぼって、東映の時代劇ばかり見ていました。読書に目覚めるのは、中学に入ってからのことになります。
おとなはみんな子どもだった