思い出すままに
鎌倉勤(猿楽町の長老)
小生、当会例会の定席である蕎麦の名店浅野屋さんのすぐ裏手に住んでいるが、神田っ子でも江戸っ子でもない。但し、オカアちゃんは生粋の神田っ子。小生はサザエさんのマスオ。九州は宮崎の山出しである。
昭和三十六年四月。上京するために宮崎駅から急行列車で二十七時間、超満員のなかデッキに立ちっぱなしで東京駅へ。途中、大阪、名古屋で少々楽になるも終点まで座席に座らなかった。
戦争のさなか、親父は若くはなかったことに加えて、国鉄の駅員だったためか、軍隊に召集されなかったらしい。小生が生まれたのは、まだ戦時中、旭化成の城下町・延岡市である。漱石の「ぼっちゃん」では猿と人間が一緒に住んでいる町ということになっている。五人兄姉の末っ子で、兄とは十五歳も離れている。物心がついた頃に兄は家に居なかった。旧制高校を出て、代用教員をしている時に召集されたが、一週間後に終戦、命拾いしたらしい。
陸の孤島といわれた宮崎県で育った私は、転勤の多い父の仕事の為に小学校は分校を含めて五校、中学校は二校に通っている。従って、小学校からの付き合いのある友達は一人もいない。そして小さい頃、父としゃべった記憶もあまりない。父は、家に居る時はみかん箱を机にして習字の勉強をしていたように思う。尋常小学校しか出ていなかったからだ。官舎住まいとはいえ、五人の子供をよく育て上げたと思う。ただ、兄は奨学金をもらって大学に通ったらしい。旧制大学(三年制)最後の卒業生で、最後の一年間は、奇遇だが浅野屋のハス向かいの神田三崎町裏手の製本屋に下宿していた。その下宿先の娘さんがなんと家内の同級生である。
さて、転校生としてイヤだったのは、クラスの同級生の前で挨拶させられたことだった。三年生の分校の時には頭にDDTをかけられたナァ。四年生の本校への登校時には近道で途中、線路伝いにトンネルを通って行く。トンネルには小さな避難所があって、蒸気機関車が通り過ぎると鼻の穴が黒くなった。下校するときには山道を通る。馬がひく荷馬車が側溝に落ちると飼い主がムチで叩く。馬は苦しくて涙を流すのを見たことがある。夏には学校帰りに川で素っ裸で泳いだことがあったっけ。
学校へは、弁当持参だった。四年生の時、農繁期に赤ん坊を背負ってくる女の子がいた。彼女は弁当がなくて、学校で配られるお椀一杯の脱脂粉乳を、教室のうしろで座って飲んでいたが、赤ん坊はどうしていたんだろうか覚えがない。あの二人はどうしているのかなァ。
ところで、家で鶏を飼っていた時期があったが、ある朝いなくなった。どうも青大将に食われたらしかった。そういえば、父親が卵を産まなくなった鶏の首をはね、学校から帰った小生が羽むしりをさせられたことが何度か
あった。下校時、畑のキュウリやトマトをもぎとって食ったこともあったっけ。
イタズラといえば、担当の先生が休んだ時、相撲大会をやり、一人が足を骨折、級長をやっていたため翌日に大目玉。一時間、教室のうしろで両手に水の入ったバケツを持って立たされたことが、、、、。さらに、バツで校庭を何周も走らされたこともあった。今はそういう体罰は禁止らしい。悪さをすることも子供の特権みたいなものだった。ケンカになると「バカ、カバ、ちんどん屋、おまえの母さんデベソ」と囃しあったものだ。しかし、イジメにはならなかった。
歳をとると最近のことは忘れるが、昔のことは覚えているという。
幼い頃のことを少し思い出しました。
おとなはみんな子どもだった