甘くならない記憶
金盛噤次郎
兎追いしかの山、というほどではありませんが、昔、子ども時代を過ごした街並みや遊び場所の記憶を、あれこれ思い起こす作業は、たとえ懐古趣味と笑われようと、甘く楽しい作業ではありませんか。
久しく米国出向が続いている僕の兄がたまに帰国して、姉弟が集まったりすると、話題はかならず、なつかしい子ども時代の「近所の噂ばなし」に及んでゆきます。記憶をたどって作る「町内古地図」も、ずいぶん修正を重ね、精密なものが出来上がっております。
先だっての席では、小学校で腕白だった兄が、年上のいじめっ子に対抗するために、近くの山から蛇をとってきてこれをズボンのポケットに入れて敵を脅したという話がでました。
ところが、これに味をしめた兄は、その後蛇取りに長け、合計二十匹ほどを町に来ていたサーカスに売って小遣い銭かせいだと告白して姉たちを唖然とさせました。我が家はじつに貧しくもあったのです。
昔ばなしが盛り上がるには理由があります。我が家はシャレていえば“転勤族”で、姉弟四人すべてが出生地が異なっていて、記憶に残る場所が多いのです。
僕たちの父親は、建設会社、星野組(あの荒巻投手の)傘下になる土建会社の現場監督、いわゆる“土方の親方”でありました。大きなど木工事に従って全国をわたり歩く仕事で、家族は、飯場暮らしか、せいぜい現場近くに小さな家を借りて、そこで工事が終わるまでそこで生活する。一か所で長くても三年を超えることはありませんでした。
因みに、長姉は北上川の橋梁工事で盛岡生まれ、次姉は只見川のダム工事で会津若松、兄は田沢湖の堰の工事で小保内、僕は大井川の鉄橋工事で静岡県川根村生まれという次第。
そのご、広島、金沢と移って終戦です。
1年ほど前、週刊誌をめくっていたら「あの家が、あの丘が、五十年前のあなたの町があざやかによみがえる」と言ったコピーで、終戦直後、米軍が撮影した航空写真を販売するという広告がありました。ウム、今はすっかり消えてしまった昔のあの街並みと、対面できるのか、とタイムスリップでも果たしたような気分になり、終戦後六年間を過ごした金沢市南部のわが町の写真を注文しました。
結果は、宣伝文句ほどにあざやかにむかしはよみがえらず、わが家らしき地点にはボヤけた影があるばかりで判然としませんでした。しかし、通学した小学校や、神社や、大きな建物などはよく分かり、当時の光景が次々に浮かんで、懐旧の思いにひたりました。
そのうち、浮かんでくる数々のシーンの中に、今まですっかり忘れていた一つの光景が忽然と割り込んできたのです、
土方の親方として“荒くれ人夫”を使いながら、「ほととぎす」の同人で俳句をひねるという軟弱なところのあった父親は、請け負った工事分担の報酬を十分に確保することができなかったらしいのです。“人夫”たちに支払いを済ますと、ほとんど残りがないというお人好しぶりで、四人の子をかかえて家を守る母は困窮し果てていたのです。
あれは終戦後二,三年目。僕がまだ小学校低学年の,金沢の冬でした。例によって金を持ってこない父と、苛立つ母は深刻な争いになり、酔った父は殴る蹴るの末、“出てゆけ”。それに対し、泣きの涙で荷物をまとめた母は、家を出る前にもう一度父の前に正座し。「長い間お世話になりました」と言って深々と頭を下げたのです。
今の妻たちは、もしこんな状態になったらなんと言って出て行くのかわかりませんが、戦前の女性としては、このセリフは当然のものだったのでしょう。けれども、幼い僕の目にも、怒りと反抗を体いっぱいにみなぎらせたパフォーマンスであることは明らかで、その迫力は、我が小さな胸にもドスンと応えたのでした。
母は末っ子の僕の手だけを引き、雪道を犀川に至る坂を下り、橋を渡って対岸の町のどこか知らないおばさんのいる暗い家に入りました。どういう知り合いだったのか、母には聞かず仕舞いでしたがが、翌日にはもう家に戻ったものと思われます。
この“事件”の記憶は、突然よみがえって僕を当惑させましたが、きっと思い出したくないこととして記憶の中に伏せていたのだと思うのです。母親に同情しつつも“女は追いつめられると怖い”という内容を含んでいることに気づいたからだとすると、僕の女性恐怖症を最初に植えつけたのはあの母親だということになるのでしょうか。
校区写真を前に、あの雪の日、母と二人でころがり込んだ家を探してみようかと思ったのですが、写真は犀川までで終わっており、対岸の町は写っていなかったのは,幸いでした。
終戦の時代
父一人を残して、僕たち家族が、広島から金沢の端っこの町に移住したのは、敗戦の昭和二十年になってからでした。“土方の親方”だった父は、広島県の八本松という小さな町に残って、海軍の弾薬庫をその町の山中に疎開させる工事に従事していたのです。そのため、原爆が落ちた時は、応援に動員されたとかで、原爆手帳を交付されていました。
金沢は、もう夏も近くなっていたらしく、白っぽいガランとした寺町の坂を、老人がはいつくばるように荷車を引いているのを見た記憶があります。荷車は、取手を手で押しながら、肩にもベルトをかけ、全身で車を引くのです。
父が後からやってきて、市内の刀屋で日本刀を一本買ってきました。いよいよアメリカ軍が攻めてくるので、各家は竹ヤリなどで戦う準備をしたのです。
黒鞘に入った“超”新刀は、もちろん米兵相手に活躍することはなかったのですが、なぜか戦後もずっと我が家にあり、のちに埼玉県に引っ越した時、家によく遊びに来ていた近所のチンピラ兄が目をつけ、刀身を二つに切って先の方を持って行ってしまいました。ケンカの時の道具にしようと思っていたにちがいありません。残って根元のほうを、ナタの代わりに使いましたが、ナタにしては重みがなく、マキも割れないので、いつのまにかどこかへいってしまいました。
終戦直前、、、町内の新村さんという家のご主人が出征された。朝の暗いうちから、隣近所の奥さんたちが手伝って、煮〆のようなごちそうをつくりました。おじさんは馬に乗ってマントをひるがえして出て行かれたから将校で、多分、二度目の応召だったのでしょう。
だが、おじさんはどこか外地で戦死されて、戦後ずっと、新村さんの家はひっそりと淋しい家でした。
表通りに面したお寺に庭で、焼夷弾の実演会というものがありました。説明する人は丸い管を持ち、地べたで何か燃やして見せた。空襲の全くなかった金沢ではどこかのんびりして、説明する人も見守る人も防空頭巾はつけていませんでした。
終戦の翌年、僕は母に連れられて幼稚園に入りました。焼夷弾の実演会のあったお寺に幼稚園があったのです。当然、園長先生はお坊さんで、お弁当を食べる前にはみんな手を合わせて、“我らは仏の子供なり”と歌うのでした。仏の教えは案外きびしくて、或る日、講堂にウンコが一コ落ちているのが発見されたとき子ども全員がパンツを脱いで先生にお尻を見せなければならなかった。その時に、松永先生という“〇〇刀自”という感じのコワイ女の先生がいたのをおぼえています。
空襲が全くなかったとはいえ、都市生活者であり、食べ物は全く欠乏していました。家は金沢の南端で、入学した小学校はさらに南で、戦前にしばらくその近くに住んだことのある杉森久英さんの話では、以前は市に含まれていなかった地域だったそうです。
その小学校の前に、金沢第三十五連隊の広大な練兵場がひろがっていたました。練兵場はすっかり畑に変わっていましたが、残った兵器を爆破したか焼却したか、赤さびた鉄の残骸があちこちに積まれていました。
終戦で仕事がなくなった父は、練兵場の一隅を借りてさつまいもを作りました。ふたつ上の兄と僕は手伝いをさせられました。ガラスで足を切ったり、肥桶をひっくり返したりして奮闘したのですが、母によれば収穫は大したことはなかったようです。
小学校では、アメリカの援助物資が配られるようになりました。初めてチョコレートというものを口に入れた時の感動はすばらしいものでした。たぶん、軍用のものだったと思いますが、板チョコではなく四角い、金の延べ棒スタイルのかたまりで、口に入りきれないくらい大きかった。鼻から脳天に抜けたその香りの鮮烈さは、今の舌ではとうてい味わえないでしょう。他にも、粉ミルクや干しぶどう、干しりんごといったものが配られ、どれもすばらしい味だった。
なにしろ僕の年代は、日本にもいろいろな物資があった時代にはちと遅く、ものごころついた時は敗戦の何もない世の中で、キャラメルもチョコレートも、台湾のバナナさえも知らずにいたのです。
チョコレートに負けず驚いたのは、突然やってきた民主主義の時代です。軍隊帰りのぐれたような先生もいたましが、学校は生徒の自主性を重んずるというタテマエで、講堂にずらりと机を並べ、国会スタイルで生徒総会が開かれました。各級長と副級長が代議員、生徒会長が議長役で校則や学校の行事を決めました。先生も生徒も熱心に取り組んだものです。
いつ頃までこんなやり方が続いたのか分かりません。警察予備隊が生まれ、朝鮮戦争が始まるまでの戦後数年間の空気は、なぜか白っぽく固まっていて、その後の時代と混ざりあいません。
今にして聞けば、忍者寺などというものが目と鼻の先にあったのですが、町の誰一人としてそんなこと知りもしない頃の、金沢の記憶です。
本・光文社 文芸編集者 1940年生
おとなはみんな子どもだった