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思い出万華鏡

堤 眞吾

[ヨーグルト]

 入谷の鬼子母神。その近く、言問通りに面したところに私の家はあった。すぐ裏は小学校で、併設されていた幼稚園に通っていた。登園したあと、たびたび脱走して家に帰った。週に何日か配達されてくるヨーグルトが目当てだった。家を出るころは届いていなかったので、抜け出したのだ。当時は瓶詰で、背の低い円柱状。牛乳瓶よりも径は大きかったように思う。

幼稚園の頑丈な鉄製の門扉は閉まっていたので、傍らにある一本の樹をのぼり、分厚い塀に移って外側に飛び下りた。

「お母さん、ヨーグルト!」

母親はあらあらという感じ。すぐに食べ終わって、幼稚園へは母親が送ってくれた。閉まっていた門扉を開けて担当の先生に引き継ぐ。母親や幼稚園の先生に叱られた記憶はない。今、思うと不思議だ。

[スーダラ節]

「お前、アレをやってみろよ」

 顔も名前も知らない年長の男の子二人が私に言った。植木等が「スーダラ節」のサビを歌いながら右半身をちょっと前にせり出して、右腕をだらりと垂らしてゆらゆら揺する動き。子供心に面白がって幼稚園で時折やっていた。どこからか聞いたのか、目の前の見ず知らずの二人はそれをやれと言う。

ちょっと怖かった。今、思えば相手は小学校二、三年ではなかったか。こちらはまだ四、五歳だ。一緒にいたかばん屋のなおちゃんも不安そうな顔つき。思い切っておどけた感じでやってみた。♬すいすーい、すーだららった、すらすらすいすいすいー。

「本当だ。お前、うまいな」

 笑顔で褒め言葉を残して、二人は立ち去った。ホッとした。

[花屋の娘]

 かばん屋のなおちゃん、直樹は幼稚園の同じクラスでいつも一緒だった。家もすぐ近く。言問通りと昭和通りの交差点にあった。花屋も言問通りに面していて、二人の家の真ん中あたり。そこの娘のことは名前を含めてほとんど覚えていない。が、私が中学生のころ、父親が何のきっかけだったか、その娘のことを持ち出した。

「お前と直樹は花屋の娘と話すとき、『うんとね、うんとね』としか言えなかったよな。向こうは一歳下なのに、べらべらしゃべってた。アハハハ」

 そうだったっけ? と思いつつ、そんな情景が浮かばないわけでもない。コロナの前、なおちゃんと何十年ぶりに会った際に、尋ねてみた。そうかもねと笑顔で返しつつ、年下ではなく同い年だと訂正してくれた。実際、私は言葉を発するのが遅かったらしい。後年、母親から「近所のおばあさんから『この子はオシだよ』と言われて泣いたわよ」と聞かされたことがある。なおちゃんによると、花屋はその後、私の家同様に引っ越したという。どこにと聞くと、青山だという。わたしの家と違って、ずいぶんしゃれているなと思った。

[集合写真]

 なおちゃんと久しぶりに会う前に、両親がつくった家族のアルバムを引っ張り出した。長男だからなのか、赤ん坊のころから幼年期の写真はかなりある。幼稚園の集合写真を見つけた。写っている園児は二十人。一番後ろに若い女性の先生が五人。最前列中央に園長と思われる年配の男性。写真下の白地の部分に「みんな なかよく 1962 4 入谷幼」と印字されていた。

なおちゃんはすぐわかった。最前列で椅子に座って写っていた。ほかの園児の顔は覚えがない。先生のほうは一人だけおぼろげな記憶があった。さて、自分は? いた。最前列の右端。ただ、カメラを見ていない。画面の外側に顔を向けていた。落ち着きのない子供だったのだろうか。今ならADHD(注意欠陥多動性障害)と言われかねない。

[小熊のぬいぐるみ]

 これを抱いていつも寝ていた。入谷から今住んでいる船橋市に引っ越す際、父親が運転する車に弟を抱いた母親と一緒に乗り込んだ。

「熊さんは?」

 私は尋ねた。

「大丈夫。うしろに乗せてあるよ」

 父と母、どちらが言ったのか覚えていない。夜になった。熊がいないことに気づき、私は駄々をこねた。熊さんがいないと眠れない! そう訴えながら、いつしか寝入っていた。翌日も熊さんなしで眠り、それが普通になった。きっと父親が捨てたに違いない。そう思っている。

[昭和三十九年]

 引っ越した年。環境が激変した。周りに家が数えるくらいしかない。道はどこも舗装されていなかった。空き地や松林、畑はもちろん、子供の足でも歩いてそうかからないところに田圃が広がっている。ザリガニを捕った。秋には虫が鳴き、草むらでは青大将がくねくねと這っていた。

 夏はハエが家の中をひっきりなしに飛んでいた。台所の天井からハエ取り紙(茶色の細長い紙で両面がネバネバしていた)が、二本下がっていて、ハエが固まってくっついたままになっていた。気持ち悪かった。いっとき、プラモデルの飛行機もいくつかぶら下がっていた。父親がハマっていたらしい。零戦のようなずんぐりした形のものから、もう少しシュッとした形のものまで。新しく作ると、前の物を外して付け替えていた。

 東京五輪はテレビで入場行進を見たことだけを覚えている。同居している父方の祖父が新しいものが好きで、片手で持ち運べる小型テレビを持っていた。普通サイズのテレビもあったが、確か、祖父がこれで見ようと言い出して、家族そろって祖父の部屋に集まった。画面はもちろんモノクロで、やたらと小さい。文庫本より小さかった気がする。行進が続くだけなのですぐに飽きた。祖父の手前、我慢したが、途中で抜けだしたように思う。

[プレハブ校舎]

 翌年、小学校に上がった。一年生の時は鉄筋三階建の一階の教室だった。二年生になると、校庭に急拵えで建てた二階建プレハブの一階に移った。物珍しさは最初だけで、早く本校舎に戻りたいなと思ったものの、三年生になってもそのまま。二年、三年の間、本校舎に入った記憶がほとんどない。

晴れた日、屋上でクラスメイトと話したことは覚えている。父親の仕事を訊かれて「お風呂屋さん」と言うと、「えっ、銭湯なの」と驚く。その反応にこちらも驚いて「ええと、工事するほう。タイル屋さん」と返した。そして相手の父親のことを訊くと「サラリーマン」だという。言葉の意味がわからず、「何をしているの?」と尋ねる私。答えは「会社に行ってる」。そう言われても、さっぱりわからないままの私。

 職人の息子である当時の私には、サラリーマンも会社も異次元のつかみどころのない言葉だった。

[団地]

 同じクラスの友達の家に遊びに行くと、ほとんどが団地住まいだった。やがて団地への憧れのようなものが、じわじわと私の中で広がっていった。

 ウチはタイル屋稼業なので戸建てだ。通いと住み込みの職人が三、四人いて、木の風呂桶もベテランの寅さんが離れにある専用の仕事場で一人で作っていた。母親は毎朝、父親も含めて五人ほどの弁当を作って送り出した。月末や大晦日は決まって、父親は大工さんのところへ集金に回り、母親は逆に集金にくる人たちへの支払いで忙しかった。

 大晦日の夜、七時くらいから母親が洗濯機を回していたことを覚えている。

 そうした両親の姿を見ていながら、私はとうとう父親に言ってしまった。

「ウチはどうして団地じゃないの? 僕、団地に住みたい」

 父親は一言。「お前は馬鹿か」と。

[転校]

 家の近くに新設の小学校ができて、四年生の一学期からそちらに通った。三年まで五組にいたのが、今度は一組で、ほかにクラスはなかった。最初の一カ月くらいは校内の蛇口がすべて針金でグルグル巻きになっていて使えなかった。トイレの水は出たらしい。給食もなし。弁当と水筒持参だった。

 ザリガニを捕った広い田圃は埋め立てられた。舗装された道が作られて区画整理も終わり、更地にぽつぽつと家が建ち始めた。

 家にはドでかいカラーテレビがやってきて、クーラーもついた。おカネは大丈夫なの? 真顔で母親に聞いたことがある。母親は「心配ないよ」と笑い、後年、これを持ちネタにして、私をからかった。

 運動会の開会式。校庭に整列した全校児童を前に、壇上に立った教頭先生が「日本国万歳!」だったか「天皇陛下万歳!」だったかをやるのが恒例だった。続けて、皆が「万歳」を三回大声で唱和する。両手もちゃんと挙げた。疑いもなくやっていたが、一年生の担任だった石橋先生は「君が代」を教える際、「まだ一年生のみんなに本当は教えたくないけれど、学校が教えろというので」といった趣旨のことを話して、私は不思議に思った。二年、三年の体育の時間には行進の練習をやらされた。クラスごとのほかに、学年全体でも行う。回数は少なくて年に二、三回だったが、これもまた何の役に立つのかわからず、不思議だった。

 後年、「千葉県の管理教育」という言葉に接して、ああそうだったのかと腑に落ちた。

 

プロフィール 堤 慎吾
(元)徳間書店 週刊アサヒ芸能 編集部

 
 

おとなはみんな子どもだった

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